100辞書・辞典一括検索

JLogos

31

上河内村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。安芸国佐伯郡(もと佐西郡)のうち。広島藩領。蔵入地と知行地が入り交じる。「芸藩通志」に「古は此辺をすべて河内と称せり,後に河内上下,小深川上下,四村に分る,川の上下にて分つといへり」とあり,河内と称した地が4か村に分村して成立。分村の時期は不詳であるが,下河内・上小深川両村の「国郡志書出帳」にそれぞれ慶長6年の検地高が記されていることから,慶長6年の検地によって分村したと考えられる。一説に元和2年の分村とする(五日市町誌)。村高は,元和5年「知行帳」,「芸藩通志」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに643石余。戸数・人数は,宝暦元年上河内村万指出帳150・550。「国郡志書出帳」188(ほかに土蔵5・納屋13・牛馬屋79・貸家8・灰屋80)・682,安政6年組合十六ケ村諸事書出帳190・821。「国郡志書出帳」によれば,村の広さは東西1里・南北1里18町,八幡川による用水に恵まれたが時に水難を被る地,牛68・馬11,作物は米・麦を主とし,生業は3割が農業,7割が山稼ぎ・駄賃稼ぎ・日雇い,夏には川漁を行い,農間に男子は薪売り,女子は木綿織延べ・莚叺作りに従事,いろり銀(30匁)・茶銀(3.7匁)・綿銀(23.3匁)・薪馬札銀(60匁)を上納した。また神社は氏神八幡宮,寺院は浄土真宗硯月山光乗寺(もと禅宗,慶長年間に改宗),境内には山根城主河内肥後守と伝える古墓があり,廃寺に知足院・円明寺・顕徳寺があった。宝永7年から利松村と山論が起こり,文政11年に和解した(河内村誌)。宝暦5年の洪水で田地が埋まり八幡川の流路が変ったと伝え,同12年に地概しが行われて81石余が上り高となった。地内を草津(現広島市西区)から水内(現湯来町)を経由する石州往還が通る。助郷は,天保6年に山陽道廿日市宿へ人足387人,玖波宿(現大竹市)へ373人が徴発されている(郡用諸事控/和田家文書)。山根城のふもとに土居・馬場・堀ノ内の地名がある。窓山は,2つの峰が対峙しその空間が窓の如く見えることからその名を得たといい,また窓は惑うの意味で,樵路の行き惑うことから惑山と称したことによるともいう(芸藩通志)。名勝魚切滝の近くにある次郎五郎淵には,むかし次郎五郎という若者が白鹿を追ってこの淵に没したとの伝説がある。幕末に光乗寺の渡辺見利が寺子屋を開き,村内の子弟の教育にあたった。慶応2年の長州戦争では,村内に関門が設けられ,光乗寺に幕府の陣所が置かれた。明治4年広島県に所属。翌5年の戸数209・人口794。同7年光乗寺境内に小学校獲誠舎が開校,生徒数は男37・女8(文部省第2年報),のちに上河内学校と改称,同14年上小深川・下河内学校と合併し上河内小学校となる。同21年の戸数189・人口866。同22年河内村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7421408