100辞書・辞典一括検索

JLogos

15

重永荘(中世)


 南北朝期~戦国期に見える荘園名。備後国世羅郡のうち。建武3年10月10日の長信仲軍忠状写および同月11日の大田佐賀寿丸代藤原光盛軍忠状写によれば大田三善佐賀寿丸・長谷部信仲が新田氏の党と戦った際に,「大田与重永堺」で合戦し重永城を攻め落としたという(山内首藤家文書)。地頭職は摂津氏が伝領。暦応4年8月7日の摂津親秀譲状によれば,「重永別作内本荘半分」が摂津親秀から親氏と三郎時親に譲られ,同時に「重永別作内新荘」が西芳寺領分とされている(美吉文書)。このあと14~15世紀にかけて,摂津氏の本新荘地頭職は押妨を被ることが多かったらしく,しばしば押妨を停める将軍家御教書が出されている(美吉文書・士林証文)。観応3年4月16日に山内通勝・通綱が連署して「重永別作免田方三郎丸名田畠」を善法寺に寄進しており(浄土寺文書),14~15世紀の重永荘近辺には山内氏一族も関りを持っていたようである。このほかに,貞治6年6月6日の足利義詮御判御教書によると重永荘は大田荘桑原方六郷・山内四郷などとともに天竜寺造営料にあてられている(山内首藤家文書)。15世紀末期以降は毛利氏の支配が及んでいる。文明7年11月24日の毛利豊元譲状によれば,山名是豊を備後から追出した功により,重永・伊多岐・山中・横坂要害などが豊元に与えられたとあり,豊元から千代寿丸(弘元)に譲られている。のち明応2年2月7日に弘元は備後国守護山名俊豊によって重永領家ほかの備後知行分を安堵されている。ほぼ同じ頃山名俊豊は重永段銭についての毛利弘元からの申し入れを認めているが(毛利家文書),これによって毛利氏は重永の年貢・段銭ともに徴収できることになったらしい。また延徳2年9月20日の福原広俊置文案によれば,重永半分が広俊の隠居分とされており,一部には福原氏の所領もあったことが知られる(福原文書)。こののち天文11年には毛利元就によって重永荘内行遠名が伊勢神宮に寄進されている(贈村山家証文)。また天文17年には毛利氏は永末氏と小寺氏に重永のうちの三郎丸名を給地として与えている(閥閲録46・168)。そのほかには有福氏が重永内に知行地を持っていたことが天正19年9月25日の毛利氏奉行人連署打渡状によって知られる(有福文書)。江戸期には重永村・三郎丸村・中原村など数か村に分割されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7422111