100辞書・辞典一括検索

JLogos

37

永江荘(中世)


南北朝期~戦国期に見える荘園名備後国三上郡のうち「芸藩通志」による荘域は現庄原市川手町・本町・宮内町・新庄町の一帯東は高郷,南は信敷【しのう】荘,西と北は地毘荘に接する荘名の由来について「芸藩通志」は「宮内八幡祠官の氏に由るといへり」とし,同社の社伝には,大同年間に尾張国の大国霊神社の祠官長江氏の次男正房が来住し吉備津彦命を祀ったと伝える応安7年7月22日の今川頼泰預ケ状によると「永江庄半分」が南北朝内乱期で足利方として戦功のあった山内通忠に兵粮料所として預け置かれている(山内首藤家文書)当荘の領主については建仁寺領諸国注進目録ノ事にあげられている応永17年の所領中に「備後国永江ノ庄地頭職」と見えることから京都の建仁寺領であったことがわかる(建仁寺旧記)明応2年備後国守護山名俊豊は備後の国人衆を動員するが,同年2月7日,山内豊成に対し「永江庄〈但,本村除之〉」を宛行うことを条件に出兵を要請しているその後明応5年10月21日の山内俊豊加判知行目録では山内氏は永江荘本村を安堵されている(山内首藤家文書)永正3年7月24日の備後国廊之坊先達注文には「〈三上之郡〉永江三ケ村」と見え,当地では熊野信仰が盛んであったことが知られる(熊野那智大社文書)毛利氏と抗争をしていた山内氏は天文22年,毛利氏に降伏したが,12月3日に山内隆通が差し出した条書では永江の地の安堵を毛利氏に求めているまた弘治3年のものと思われる毛利元就自筆書状によると永江荘300貫が山内豊成の隠居分となっている天正14年2月12日の山内隆通知行書立案では永江荘350貫が隆通の知行分となっている(山内首藤家文書)当荘内の宮内には船頭垣内(専当垣内)・船頭旧(専当給),また西城川北岸の大仙谷付近には「こうめん」「ゆうめん」など,荘園に由来する地名が残り,字橋本には「まどころ」(政所)の名も屋号や薬師堂の名として残る荘園の中心は西城川北岸の地で,本村といわれた地もこの付近かと思われるこの地にはのち「永江荘の原」として荘(庄)原の地名が生じたとおもわれるなお山内氏は荘内の寺社の保護にもつとめており,隆通は天文18年新在家に鎮座していた丑寅神社を重修,天正8年には宮内八幡神社を重修し神田を寄進しているまた真言宗竜尾山宝蔵寺は山内氏の祈願所となり,寺領20貫を寄進されている




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7422931