流川町(近世)

江戸期~明治14年の町名。江戸期は広島城下の武家屋敷地。城東の八丁堀と京橋川の間,藩主浅野家の別邸泉水屋敷(縮景園)から南の竹屋町に至る南北に長い町。町の中ほどを東西に西国街道が横切り,一帯は銀山【かなやま】町ほかの町人町となる。通りに沿って泉水屋敷から流出する水道があり,町名はこの水道の名にちなむ(旧県史)。元和5年の城下絵図では西国街道以北の町間数397間,以南は153間。広島藩御覚書帖によれば侍屋敷48軒・3万1,400坪余(県史近世資料編)。「芸藩通志」では京橋筋を境として上・下流川町に分ける。泉水屋敷はもと真言宗延命院の敷地で,浅野氏入国の翌元和6年から造営を開始。庭園の結構・数寄屋の建築などは上田宗箇の手になると伝え,中国の西湖に模したところから縮景園とも呼ばれる。のち浅野吉長,重晟の時代にさらに拡張整備された(新修広島市史)。流川はもと今川と称し,縮景園からの排水路として開かれた。当時絶えず清水が流れていたことから流川と呼ばれたが,文政年間には濁水がたまりどぶ川と化していた(知新集)。明治7年由興舎設立,翌8年の教員数3・生徒数324,男のみ(新修広島市史)。同11年広島区の町名となる。同14年上流川町・下流川町に分離。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7423061 |




