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深川郷(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える郷名。安芸国安北郡のうち。三篠川が本流太田川に注ぐあたりから狩留家付近までの流域。建暦2年8月19日の佐伯考支・大子連署譲状写に,「佐伯考支佐伯大子解申譲渡長田并深河田畠等事」と見え,鎌倉御家人の佐伯考支が「深河末次名田畠等」を嫡子知忠・庶子支直に譲っている。同文書には「田門御庄河内郷末次名田畠等」とも記されている(毛利家文書)。「芸藩通志」中深川村明光寺の項には,「寺に朱字の法華経八巻を蔵す,文治三年丁未十二月四日未時許,於閻浮提大日本国安芸国北庄深河書写畢,願主慶明,執筆僧定慶と記す」とあり,これに従えば初見の時期はさらに早くなる。ただし,前者では深河は田門荘内,後者では北荘内とされており,なお検討を要する。また深川郷内に含まれる狩留家は,さらに古い保延5年6月日付藤原成孝・範俊連署寄進状に「加留賀」と見えている(浅野忠允氏旧蔵厳島文書)。永正2年12月13日の毛利弘元下知状によると「深河上分大小之社頭奉幣等并注連役」とあり(久都内文書),年未詳6月2日の大内義興宛行状写では,義興が毛利元就に「深川下分」を宛行うなど,深川が上分と下分に分割されている。また,年月日未詳の毛利元就知行注文案には「深川上下三百貫」と並んで「久村七十貫」が見え,天文21年2月2日の毛利元就・隆元連署知行注文では「深川下分 三吉知行」とともに「岩上・諸木・末光」「久村」「馬木」が記されている(毛利家文書)。さらに慶長4年9月6日の安北郡深川打渡坪付(久都内文書)の地名を総合して考察すると,中世末期の深川郷の範囲は,江戸期の下深川村・中深川村・上深川村・狩留家村・小河原村・福田村であった。周辺の岩上村・諸木村・末光村・玖村もある時期には,深川郷に含まれていた可能性がある。上深川の友光は,吉川興経の隠居所と定められ,興経は天文16年8月に山県郡大朝新荘の地から移住してきた。しかし毛利元就は興経を快く思わずまた勢力拡大の狙いもあってこれを討つこととし,天文19年9月27日に熊谷信直と天野興重が襲撃し,興経一族と家臣豊島興信ら5人兄弟等は力尽きて討死・自害した。その直後の11月2日の元就は合戦場となった友光名6石5升を伊勢神宮領として寄進している(贈村山家証文)。天正17年2月16日,毛利輝元は「深川ぬくしな道」の建設を神田元忠・山田元宗に命じた(譜録)。広島築城に際して吉田との連絡路の意味をもつものであった。郷域には,亀崎八幡や正明院薬師がある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7423515