松永村(近世)

江戸期~明治22年の村名。備後国沼隈郡のうち。はじめ福山藩領,元禄11年幕府領,同13年から再び福山藩領。松永新涯ともいった。当村は万治3年藩士本庄重政が神村【かむら】・柳津両村沖の干拓に着手,まず塩田として開発された。成立は,慶応元年の郷中覚書(福山市立図書館蔵)によれば寛文2年とし,重政の子重尚の随幻覚書(承天寺文書)によれば同7年とあり,あわせて塩戸年貢銀100枚を献上したという。開発は築堤によって行われ,完成は同7年という。塩田の開発はまず寛文2年に完成し,同7年規模を拡大し,製塩も軌道に乗ったものと想像される。同7年には市町の制をしいて庄屋・宿老が置かれ,公事が取扱われたという(松永町誌)。随幻覚書によれば,当村の入植者は金鉱山とよく似て各地からの出身者からなり,延宝9年竹原下市町年寄の公用覚(吉井耕一家文書)では竹原塩浜から宗巴屋五左衛門など7名が入植して塩田経営に従事したことが知られる。このほか製塩業者の屋号には入江屋・神村屋・田島屋・広島屋・高須屋・浦崎屋・山南屋・本郷屋などがあり(松永町誌),出身地をあらわすものとみられる。なお藩も塩田経営には積極的で,寛文7年浜人へ酒を下賜し,翌年には承天寺を福山から移建した。村高は,元禄12年備前検地314石余・反別45町4反余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに315石余。延宝7年の当村の町屋敷は4反余(1石余)・畑屋敷は1町1反余(10石余)であり,元禄5年の総反別は40町7反余(242石余)であった(元禄8年沼隈郡本検書出帳/広島大学蔵)。「備陽六郡志」によれば,田41石余・5町6反余,畑272石余・39町7反余で,定免4割6分5厘。戸数・人数,家畜数は,宝永8年194・1,668,牛4・馬1,文化年間595・2,489,牛19。村の規模は東西15町・南北10町。平常は農業のほか男女とも浜働・塩担稼をし,ほかに小商いもするという。また当村は米穀とも自由に買占めることを藩から許され,塩業労働のため多量の飯米が必要であったことがうかがえる。船38艘については,「塩浜ねば土・入替土・薪・塩上荷積船ニて御座候」とあって,塩田経営に必要であった。松永塩田の反別は水野検地39町6反余,元禄12年備前検地56町4反余。塩浜軒数は元禄11年52,のち分け浜が行われたようで48,慶応年間には5浜が畑となり43(郷中覚書)。1浜は8反から1町5反。塩田の年貢・運上は,水野氏時代は俵掛り運上として塩浜番所で塩改めを行い,1俵につき銀1分5厘の運上銀を徴収していたが,元禄11年からは元禄元年から同10年までの運上銀の平均額銀17貫33匁余を徴収。正徳6年から新たに木口銀として米70石を徴収(同前)。塩の販売については天保8年の規定書(天野家文書)によれば,松永塩は天保6年までは尾道屋・機折屋・住吉屋の3軒の塩問屋を介して売り捌かれていたが,天保6~7年頃塩問屋と浜方との間に争論が生じ,「月代り所」と称される総浜問屋で売り捌かれるようになった。販路は越後など北国筋が中心(安政2年竹原塩浜覚書/竹原市立図書館蔵)。村内には悪水桶5・池1,神社3・寺1(臨済宗承天寺),医師は小川玄長法橋・石井安生・秋山升益。新開には長和島・神島・本郷島・徳島・今津島・西島・小代島の7島があった。庄屋は高須・村上・尼崎屋など。剣大明神は,潮崎神社ともいい,柳津村に鎮座していたものを本庄重政が,松永塩田築造の際,社殿を移して塩浜の守護神とした。寺子屋は,高橋要平が天保3年に開き,明治2年の生徒数男43・女36。また岡田文五郎も天保10年に開き,明治4年の生徒数は男25・女13(備後郡村誌・備陽六郡志・福山志料・沼隈郡誌)。同4年福山県,以後深津県・小田県・岡山県を経て,同9年広島県に所属。同10年第17大区会議所を当村に設置,翌11年戸長役場を設置,同18年柳津村との連合戸長役場を設置。戸数・人口は,明治5年684・3,120,同21年871・3,368。明治8年地租改正では塩田の反別65町9反余・地価3万5,600円余,製塩場の反別2町8反余・地価1,354円余。同17年暴風雨の際潮水が浸入して砂礫が堆積し,作土を喪失したため地主から免租を出願,塩田は全滅。翌年県知事出願を経て,同20年地押調査が行われ,この時の塩田の反別36町余・地価1万8,349円余,荒地33町7反余。なお明治11年松永塩の販売高8万3,466石余のうち約9割にあたる7万6,000石余を北国に移出(西南諸港報告書)。同年頃丸山茂助・加藤助次郎らが履物業を営み,府中や島嶼部など地方産の桐材で下駄を製造。学校は明治4年字東町下之町に福山藩啓蒙所を設置,同6年小田県管下第2中小学区84番小学校,同20年沼隈小学区第七尋常小学校と改称。さらに同21年沼隈郡全町村に沼隈高等小学校を設置,本校を当村に置く。私塾は,高橋松之介が泉石舎を明治2年に開いた。また石井竹荘は地方青年教育のため私財を投じて明治16年西町に浚明館を設け,三原の儒者長谷川桜南を迎えて館長とした(沼隈郡誌・松永町誌)。同10年浅井岩蔵が塩崎神社の末社として下之町に金神神社を設立し,金光教の布教を開始した(福山市史)。同22年市制町村制施行による松永村となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7423740 |