三入荘(中世)

平安末期~戦国期に見える荘園名。安北郡のうち。「和名抄」理郷を中心に成立した三入保から発展した荘園。太田川支流根谷川流域を占め,江戸期の大林村・上町屋村・下町屋村・桐原村・上原村・可部村に比定される。養和元年12月8日の後白河院庁下文案に新熊野社領として「安芸国 三入庄」と見える(新熊野神社文書)。三入保から三入荘への転化の時期や事情については明らかでないが,新熊野社への寄進は,同社が後白河院の御所法住寺殿鎮守として創建された永暦元年頃と推定され,立荘には当時安芸国に深いかかわりをもっていた平清盛の力が大きく作用していたとみられる(県史)。承久3年9月6日,武蔵国熊谷郷に本拠を置く鎌倉御家人の熊谷直時が,承久の乱の勲功賞として三入荘地頭職に補任された。その後,直時と弟資直の間で相論を生じ,幕府は,文暦2年7月6日関東下知状により,所領を直時2・資直1の割合で分け,資直を三入荘三分一地頭職として認める旨の裁決をした。これに基づいて,安芸国守護藤原親実が2対1に分割したのが嘉禎元年11月12日の安芸三入荘地頭得分田畠等配分注文である。これには,田55町70歩・畠19町7反300歩・栗林6町300歩の百姓分・二郎丸名・是松名・地頭門田・政所名田・三郎丸や方々給田・荘内諸社・狩蔵山に至るまで,すべて直時3分の2,資直3分の1の割合で分割されている。田畑の一部に,宗里・長尾里・松田里・仁田里・亀田里・大栗里など,条里坪付式の表記が見られる。長尾里は広島市安佐北区可部町上原の小字名に残る。松田里・仁田里・亀田里・大栗里その他数多くの小地名は,根谷川流路の変更のためか所在を失っている。弘長3年7月20日,幕府は「三入庄倉敷参分壱」を資直に認めた。嘉禎元年の配分注文は,三入荘を名ごと,地域ごとに分割した坪付分割であり,また記載もれがあるなど不備のため,文永元年5月27日の関東下知状をもって荘域を2対1に分割することとし,同2年5月10日六波羅より,遣使して,境の牓示を打つことを命じた。この時から直時知行の本荘,資直知行の新荘の称が広く行われることになる。桐原川流域が新荘で,これを除く根谷川本流域が本荘の範囲であろう。本荘は,正安元年10月12日の六波羅下知状に「三入庄三分二内〈下村分,号本庄〉」とあり,新熊野社雑掌任賢と地頭熊谷直満の間に,「下村〈除五郎知行分〉八町」を領家方へ渡し,ほかを地頭方とする旨の和与が成立し,これを六波羅が確認している。暦応4年4月21日の足利直義下知状には「三入本庄内上村」とある。三入本荘は直満から直経へ譲られ,建武元年6月10日に直経は雑訴決断所から,三入本荘地頭職を安堵されている。しかし,その後直経は,建武4年9月香河兵衛五郎の濫妨停止や「三入本庄三分一内一方新野太郎三郎頼俊跡」地頭職を請うなど,その支配は貫徹しているとはいいがたかった。康永年間には,新野道恵がなお本荘内三分一地頭職を直経に引き渡さず,直経は幕府へ押領停止を訴え,幕府も直経の主張を認めた。永徳元年12月14日,大内義弘が熊谷宗直に三入本荘を安堵し,永享10年8月15日,熊谷信直は三入本荘を堅直へ譲渡している。一方,新荘は,元徳3年3月5日の熊谷直勝譲状から見える。新荘方一部地頭熊谷蓮覚は一族と別行動をとり,南朝方として矢野城に滅んだが,観応2年2月1日,三入新荘一分地頭熊谷直平が武田信武の挙兵に応じるなど,新荘方は北朝方(武田方)として行動する場合が多かった。今川了俊は応安6年2月5日「三理庄内〈熊谷彦四郎入道跡〉同庶子等跡」を宗直に兵粮料所として預け置き,至徳2年10月3日「三入庄〈但除熊谷修理亮入道分〉」を安堵した。これらの場合は,本荘・新荘の別は記されていない。明徳2年3月4日の安芸三入荘本荘新荘方地頭連署契約状によれば,承久3年に熊谷直時が三入荘地頭に補任され,以後本荘・新荘に一族が分立し,離合集散を繰り返してきたため,熊谷一族は本荘と新荘が互いに契約し,一族の結束を固めている。同状には,本荘方は宗直1人署名したのに対して新庄方は重直・直忠・朗乗の3人の名前がある。しかし宗直の子膳直の時に新庄方はその配下となり,孫信直の時,伊勢ケ坪城から高松城へと本拠を移した。その後,永享10年8月15日の熊谷信直譲状に「安芸国安北郡三入庄本庄分事」と見えるが,明応9年10月28日の武田元信判物には「安芸国安北郡三入庄之内」とあり,戦国期には本荘と新荘の区別は見えない。文永元年5月27日の関東下知状の相論の項目に「山口原町屋在家参宇事」「市場田伍段少事」「祐直押領直時分市場在家地由事」などとあり,当荘内に市場が形成されていたことが知られる(熊谷家文書)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7423767 |