和知(中世)

鎌倉期から見える地名。備後国三谿郡のうち。「とはずがたり」によれば,乾元元年作者二条(源雅忠の女)は厳島参詣の帰途,船中にて「ひんこの国,わちといふ所」の女に勧められ,年末に当地を訪ねて和智氏の館に宿す。この時,和智氏館では惣領広沢与三入道行実が下向するというのでそれを迎える準備におわれており,二条も求められて絹障子に絵筆を振るったという。また和智氏館における所従の駆使,鷹狩などの生活の様子も知られる。こののち二条は和智氏の兄,江田氏の館へ寄宿したため,彼女をめぐって兄弟相論となったが,関東の惣領家の与三入道の裁許によって解決している。和智氏は,武蔵国広沢郷に拠った波多野流藤原氏が広沢氏を称し,実村の時三谿郡西部に下向,息実綱が江田氏,その弟実成が和智氏として分出したのに始まる。この和智氏と何らかの関係を有すと見られるのが,和知町中組の古城山城跡である。調査の結果,13世紀前半或いは中頃から15世紀のものと推定され,中でも南麓の土居屋敷は和智氏の館跡と考えられるが,明証はない。城は和智氏が吉舎【きさ】平松山城,南天山城へ移転するに伴い廃されたと推定されている。また字宮地の八幡神社は,承元年間和智実方が鎌倉から勧請したと伝える(双三郡誌)。戦国期に入ると和知は,山内首藤氏の勢力下であったものとみえる。応仁文明の乱中,山名政豊は東軍山名是豊を追って備後国支配を進めたが,その息俊豊は反旗を翻し,明応年間を中心に両者の間で合戦が繰り返された。年欠8月20日の山名俊豊書状によると,俊豊方に与同した山内氏は備州田総知行分をはじめ「和知郷」などを給分として認められている(山内首藤家文書)。その後,備北一帯は尼子氏と大内・毛利氏の抗争の舞台となった。永正3年11月5日,毛利弘元が家臣渡辺修理進信に対し,「和知面後巻」についての感状を与えたのもその1つであろう(閥閲録41)。大永7年南下する尼子経久に対し,7月12日毛利氏が和知において,8月9日大内・毛利両軍が「和知郷細沢山」において合戦しており,この時の毛利元就感状が数通残っている(同前16・36など),この細沢山戦場跡は現在の和知町国広山と南山に挟まれた一帯と考えられている。この頃から山内氏は尼子方に属しており,年欠10月21日塩冶綱副状によれば山内隆通当知行等のことにつき,「高光和智村事」は重ねて思案を加えると述べている(山内首藤家文書)。ついで天文22年5月24日の毛利元就・同隆元連署書状によれば,毛利氏は備北における尼子勢力の掃蕩を進め,恵蘇郡涌喜を攻める尼子方の後巻として和知まで出陣している(譜録)。尼子氏に与同した江田氏も毛利氏に攻略され,山内氏は同年12月3日,条書を差し出して和睦を求めた。その中で隆通は,和知村などの所領安堵を請うているが,毛利氏と宍戸氏はこれに合点していない(山内首藤家文書)。一方,吉舎へ移っていた和智氏は当初尼子方に属したが毛利氏に服属し,誠春・元家(久豊)の兄弟は防長経略以降各地に転戦した。しかし永禄6年の毛利隆元頓死について毒殺の嫌疑をうけ,永禄12年初頭,厳島において誅殺された。家督は,誠春息元郷が存続を許されている。年未詳檀那注文には「備後国江田和智椙原何一円」が挙げられている(熊野那智大社文書)。江戸期の「芸藩通志」は茅瀬・田利・仁賀・光清・和知の5村を和知荘としている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7424370 |