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赤間関(中世)


 鎌倉期から見える地名。長門【ながと】国豊東【ぶんとう】郡のうち。「吾妻鏡」元暦2年正月12日条に,平家追討のため源範頼が赤間関に至ったことが見える。同年3月24日,赤間関壇ノ浦において源平合戦し,平家はここに滅亡した。その後,嘉禎3年5月25日長門国司庁宣(寺社証文3)に「赤間関阿弥陀寺」と見え,阿弥陀寺の所在地として登場する。平家滅亡の際,安徳天皇は阿弥陀寺(現赤間神宮)の地に葬られた。宝治2年12月日蔵人所牒写(阿蘇品文書/中世鋳物師史料)は鋳物師の諸国に進出するようすを伝えたものであるが,門司・島戸・竈戸・三尾と並び赤間の名が見える。建武3年2月,京を追われて九州へ下向する足利尊氏は赤間関にしばし足をとどめたが,九州の諸将が相次いでこれを歓迎した。以来南北朝期,赤間関はしばしば宮方・武家方の攻防地となる。「歴代鎮西志」によれば,正平19年,武家方に降った大内弘世が周防【すおう】・長門・豊前の守護となってからは,それまで長門守護であった厚東駿河守が九州宮方勢力の援助をもって関門海峡を挟み攻防を繰り返したというし,「豊前国軍略記」によると応安元年,九州宮方の代表である菊池氏が北九州を侵略,これに大内氏の命をうけた陶弘政が防戦,「二月廿三日於赤間関討取官軍ノ兵士百余騎,兵船八十四艘,菊池敗走」とある。また,足利尊氏が赤間関阿弥陀寺に天下静謐を祈らしめ,寺内寺領への武士の乱入狼藉を禁じたのは文和5年2月28日のこと(阿弥陀寺文書/寺社証文3)であるし,九州宮方制圧を任に帯び九州探題として九州へ下向する今川了俊貞世が赤間関に至ったのは応安4年霜月29日のこと(道ゆきふり/群書18)である。室町期に移るや,史料的には俄然,国際的様相を強くする。倭寇をめぐって発生した応永の外寇の翌年,応永27年3月25日朝鮮使宋希璟が筑前志賀島を経て赤間関に到着し,同月30日まで滞在,帰途においては同年7月26日夜赤間関に泊まり,同月30日出帆している(老松堂日本行録)。「李朝実録」によると,太祖4年(応永2年)12月乙巳(16日)「日本大内多多良遣人,来献土物」の記事以来,大内氏あるいは将軍家の使者が頻々と訪朝しているが,赤間関が渡航基地になったことは間違いない。同書世宗11年(永享元年)12月乙亥(3日)の記事には倭寇の数および往来の路を報告し,対馬・壱岐・内外大島・志賀・平戸などの島は「赤間関以西之賊」,四州以北の竈戸・社島などは「赤間関以東之賊」「対馬島為諸賊都会之処,赤間関是四州諸賊出入之門」という。また,「満済准后日記」永享6年5月8日条に「渡唐船共悉〈五艘〉無為着岸赤間関由」とあり,第9回遣明船(正使は竜室道淵)が赤間関に無事帰還したことを伝えている。第11回遣明船については,宝徳3年12月11日に正使東洋允澎が往路赤間関に着いたこと,享徳3年7月13日に赤間関に帰還したことが「允澎入唐記」に記される。「海東諸国紀」には,赤間関鎮守高石藤原忠秀が応仁元年と文明3年に,赤間関太守矢田藤原朝臣忠重が応仁元年に,それぞれ朝鮮に使をよこしたことが記される。戦国期,北九州への勢力拡大を図る大内氏は,文明15年8月1日,九州出兵の渡船を赤間関役と定める(大内氏掟書)などして,赤間関を軍事拠点とする。諸軍記には,この大内氏と九州諸将との攻防において,大内氏が赤間関に着陣したり,あるいは赤間関から渡海したことがよく見える。なお「大内氏掟書」には赤間関から小倉・門司・赤坂への航路が示され,関門海峡の交通状態をうかがうことができる。その後,毛利氏時代も大友氏との角逐の軍事拠点であったことに変わりなく,さらに天正14年,豊臣秀吉の九州仕置にあっても同様で,九州在陣の秀吉を見舞うべく山陰経由で下向する細川幽斎が赤間関に足をとどめ小倉へ渡ったのが天正15年5月23日のことである(九州道の記/群書18)。文禄元年,文禄の役が始まる。秀吉に従った木下勝俊の従軍記「九州のみちの記」は,天正20(文禄元)年関門海峡の波難から逃れるように赤間関に上陸,阿弥陀寺に詣でたことを記す(群書18)。肥前名護屋へ下った秀吉のもとに諸物資が運送される実況をよく伝えているのが,小郡の医師平田道伯のもとに伝わった一連の文書(閥閲録遺漏3‐3)である。天正20年12月12日北政所黒印状から文禄2年7月19日豊臣秀吉朱印状まで25通,宛所はおおむね赤間関奉行。鷹,苧,能の小袖,江川酒,鏡,鏡台等々の物資を急便で入念に継ぎ渡すよう指示したものである。二宮旧記天正20年2月28日の記事(忌宮神社文書)によれば,秀吉御座船の新造を毛利輝元が赤間関で行い,この日その竣工を祝う行事が催されたとある。その舟の名は,一つが皇后丸,一つが宮丸であったという。慶長の役に際しては,慶長2年5月16日毛利輝元定書(閥閲録8‐1)によると,赤間関並びに博多の奉行衆に対し,渡海にあたり100石舟に馬5疋の積載など細かい指示が行われてもいる。ところでこの時期,ヨーロッパ人の来日が相次ぎ,「耶蘇会の日本年報」(県史料中世上)をはじめとする諸記録に赤間関(下関)のことが記されていて国際港の色彩を強くするが,その中で注目されるのが天正12年小春日,杉(椙)原元兼証状写(高洲家文書)である。この文書は,毛利氏の被官で赤間関の奉行を任じていたと思われる椙原氏が,明の泉州府晋江県の商人に対し明年6月を期して交易することを約束したものである。対中国との関係を示す史料がほとんど乏しい中で甚だ貴重であり,この文書とともに,交易の目印として使われた万暦12年の中国人署名入りの麻製船旗も伝わっている。慶長の「長門国絵図」に見える豊東郡赤間関の高は1,039石6升1合である。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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