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赤間関(近世)


 江戸期~明治12年の総称名。長門国豊浦郡のうち。長府藩領。村高は,慶長15年検地帳1,858石余,「天保郷帳」には赤間関村と見え1,372石余。慶長15年検地帳によれば,田40町余(529石余)・畑43町余(190石余),百姓屋敷56軒(2町余・27石余)・町屋敷633軒(5町余・150石余),諸浮役960石余。町屋敷が多く交通の要衝として商業都市の形態を示している。江戸初期の町方は阿弥陀寺町・外浜【とばま】町・中之町・赤間町・西之端町・南部町・細江町の7か町であったが,南部【なべ】町・細江町が東西に分かれ,のち稲荷町・裏町が成立して加わり,また,長府藩家老細川宮内の領地であった豊前田町が加わった(下関二千年史)。寛政4年の赤間関在番支配下の人口調べでは,阿弥陀寺町・外浜町・中之町・赤間町・西之端町・東南部町・西南部町・東細江町・西細江町・豊前田町・裏町・稲荷町の12か町で,家数2,262・人数8,299,天保9年の人別帳によれば,家数1,760・人数6,644(武士,神官,僧侶を除く)で,これには阿弥陀寺町が含まれていない(下関市史)。赤間関には御用所・目代所が設けられ,御用所には赤間関在番が長府藩から派遣されて行政を掌理した。東南部町に設置された役所のほか,御船手小屋・舟子小屋・在番役・町方役・筆者・捕吏などの役宅や的場・調練所が設けられた。目代所は西之端町に置かれ,大年寄が出勤して関在番の命を受けて町政をつかさどった。大年寄役は行政事務が繁忙になるとともに2人制となり,次第に増員されて慶応元年には6人が2組に分かれて交代で勤務した。そのほかの地下役に小年寄役,月行司役,御用達商人,口銭銀割方役などが置かれた。文政7年の赤間関苗字持諸役人控によれば,小年寄10人,月行司9人,林門蔵手記によれば,御用達商人23人となっている。口銭銀割方役は問屋連中から選ばれる名誉職で,元治元年頃の奈良屋庄兵衛控によれば18人が選出されている。寛文12年,河村瑞軒の北国航路改良以来,北前船の寄港は赤間関に盛況をもたらした。瀬戸内筋・西海筋の寄港地でもあり,問屋が400軒余もあったという。「筑紫紀行」に「そもそもここは北国西国の津にして,日ごと入舟出舟数知れず,誠に西国一の大湊なり」とあり,その繁栄ぶりをうかがい知ることができる。港の繁栄は遊里の発達を促し,稲荷町が有名。天保9年には遊郭6軒,貸席2軒,芸妓置屋1軒で,女郎56人,禿30人,芸妓23人であった。当地は山陽・山陰両道の合流点で,殊に堂崎は山陽道の基点で九州への渡し場もあり,長府藩の津口の番所が置かれ,旅行者の取り調べを行った。文久3年5月,アメリカ商船ペンブローグ号砲撃以来,5次にわたる攘夷戦が関門海峡で行われ,さらに,元治元年8月,イギリス・フランス・アメリカ・オランダ4か国の連合艦隊と交戦して長州側は完全な敗北に終わった(下関市史)。神社には鎮守八幡宮・稲荷神社・亀山八幡宮・菅原神社・大国神社などがある。阿弥陀寺は明治3年に廃されて神社となり,のち今の赤間神宮となった。寺院には浄土真宗本願寺派教法寺・光明寺・勝安寺・極楽寺,浄土宗引接寺・酉谷寺,臨済宗永福寺,高野山真言宗功徳院,曹洞宗東光寺,法華宗本行寺,時宗専念寺などがある。廃寺に善福寺・法興寺・福生寺・大乗寺(のち大隆寺)があった(寺社由来・下関二千年史・豊府志略・下関市史)。明治4年豊浦県を経て,山口県に所属。同6年東南部町の赤間関在番役所跡に第15大区会議所が置かれた。同8年,同会議所が大区扱所となり,区長のほか副区長・代議人・加勢・算用師・同加勢が置かれた。同12年赤間関区の一部となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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