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糸米村(中世)


 戦国期に見える村名。周防【すおう】国吉敷【よしき】郡のうち。延徳4年3月10日大内政弘は佐々並の長勝寺に「新豊院様御領周防国吉敷郡内拾陸石余地〈古熊・讃井・糸米等内〉」を渡し遣わしている(注進案20)。弘治3年11月,大内義長の残党が,義隆の遺子亀鶴を奉じて山口障子岳挙兵,当地の者もこれに呼応したため,久芳兵庫はその討伐に当たった。弘治3年12月22日,毛利隆元は久芳に対して褒状を与えた(閥閲録117)。この中に「今度糸井禰村悪心之者共逆意を企候之処」とある。糸井禰村はすなわち糸米村であろう。永禄9年8月29日付の今八幡宮文書(寺社証文29)に「吉敷郡今八幡社領同郡糸米村内弐町地」その他の地を,弘治3年10月6日の毛利隆元書付の通り認める旨の,毛利元就・輝元の裁許状がある。また天正14年2月12日付の山口多賀社文書(同前29)に,山口今伊勢ならびに今八幡宮での祈念に対し,神楽米として来年より毎年4石5斗を糸米村の土貢米内から充て遣わすとの毛利輝元袖判状も見える。糸米の一部は,大内村乗福寺領であった。永禄12年6月20日付の乗福寺文書(同前7)に,乗福寺領吉敷郡内所在の分として,讃井・天花などとともに糸米が見える。江戸期には上宇野令の小名になった。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7424615