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竈戸(中世)


 鎌倉期から見える地名。熊毛郡のうち。文治2年9月5日の源頼朝下文に「下 周防国伊保庄・竈戸関・矢島・柱島等住人」とあり,賀茂別雷社領である当地の関所などに対する,土肥実平および熊毛郡大野村の豪族と思われる大野遠正の不当を停止し,領家の進止に従うよう命じている(賀茂別雷神社文書/鎌遺169)。宝治2年12月日の蔵人所牒写にも「殊西国被停止門司・赤間・島戸・竈戸・三尾等関新儀狼藉者」とあり,左方灯炉御作手の供御人の通行に際し,当地の関所などにおける新儀狼藉の停止を命じている(阿蘇品文書/同前7024)。応長元年7(ママ)月13日の苅田顕政・藤原親家連署遵行状によれば,「竈戸関地頭代」に対し,高野山金剛三昧院領筑前国粥田荘の上下諸人勝載船の通行に関して,当地の関所で煩をしないよう命じている(金剛三昧院文書/同前24370)。なお,鎌倉後期と推定される年欠9月26日の長井貞秀書状には,「又南方御恩事ハ,南方料所出雲国赤江保本主返給候了,為其替,周防国竈戸関被進候キ」とあるが詳細は不明(金沢文庫文書/同前23519)。建武3年5月の足利尊氏の上洛に際して当地は軍勢集結地の1つとなっており,建武3年5月の波多野景氏等着到状写(黄薇古簡集/南北朝遺601)に「馳参長門(周防カ)国竈関時」,同年7月12日の日下部重方軍忠状案(東寺百合文書/同前681)に「参会防州金(釜カ)戸関」と見える。また暦応3年3月14日の足利尊氏御教書写では,泰地・塩崎一族に対し「自周防国竈門関至□(摂)津国尼崎」の船の警固を命じている(米良文書/熊野那智大社文書3)。康応元年3月,足利義満は安芸の厳島社に参詣するが,その時随行した元綱の紀行文「鹿苑院西国下向記」に当地が散見する(宮内庁書陵部蔵本/県史料中世上)。3月12日の記事に「其(下松)より小船にて夜もすからこかせつゝかまとの関をも過て……かまとの関のかり御所へ入申へきよし申されけれハ」「同(三月)十八日巳時高洲を御立ありて,申刻かまとの関に御着あり……同十九日辰ノ時かまとの関を御出,大内供奉なり」と見える。またこの時の今川貞世の紀行文「鹿苑院殿厳島詣記」にも,同年3月18日条に「かまどの関に御かへり有,これにて大内一ぞくども伊与の河野など御目にかゝりきときこゆ」,同19日条に「かまどの関より周防国やしろの島・よこみ・いつゐ・あき・ふなこしなどいふ浦々島々とをらせ給」とある(県史料中世上)。さらに応永27年朝鮮回礼使として来朝した宋希璟の紀行日記「老松堂日本行録」には同年4月1日のこととして「過黒石西関……清晨掛席過西関」などとあり,当地が西関と記されている(同前)。また「李朝実録」永享元年12月3日条に「四州以北,竈戸・社島等処,赤間関以東之賊也」と見える。宝徳2年12月3日の富田公用米送状によれば,「竈戸関」の回船薬師丸が富田保の公用米284石6斗4升のうち船賃44石1斗を差し引いた残りを兵庫まで運送している(東大寺文書/新南陽市史)。また享徳4年5月8日と寛正2年11月25日の周防国宇佐木保司得分送進状があり,同様に当地の回船薬師丸が宇佐木【うさなぎ】保の年貢を兵庫まで運んでいる(壬生家文書2/図書寮叢刊)。延徳3年8月3日の賀茂社正祝権祝知行目録には賀茂社正祝の知行所として「□□(周防)国竈戸関室津村」が見える(鳥居大路文書/愛媛県史資料編古代中世)。なお,朝鮮の申叔舟が文明3年に著した「海東諸国紀」には冒頭の道路里数に「自赤間至竈戸関三十五里,自竈戸至尾路関三十五里」とある(県史料中世上)。また永享11年3月3日の善福寺末寺注文には「〈竈戸関〉神護寺 願主宇野式部丞 田地四段余」とある(寺社証文14)。当地は文安2年の「兵庫北関入船納帳」に「上関」とあるのを初見として,以降戦国期には上関と称されるようになった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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