100辞書・辞典一括検索

JLogos

50

小松村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。周防【すおう】国大島郡のうち。元文2年は屋代村と合わせて屋代小松村と呼ばれていたが(地下上申),天保12年までには屋代村から分村して笠佐島を含み1村となって成立(注進案)。萩藩領。大島宰判に属す。村高は元文2年は屋代小松村として5,093石余(地下上申),「注進案」1,924石余,「旧高旧領」2,679石余。元文2年の家数576・人数2,259(同前),天保12年の蔵入地1,022石余,給領主2人で給領地901石余,田畑および塩田130町余,うち蔵入地田畑90町余,粟屋若狭給領地は田畑3町余と塩田29町,中村五兵衛給領地は田畑6町余,小名は,笠佐・開作・北方・西・東・中田の6か所,家数761,ほかに諸士陪臣8,百姓の所属は蔵入地356・粟屋領356・中村領33,職種は農民652・大工11・本酒場2・桶屋2・鍛冶5・廻船持38・商人26・船大工4・木挽2・紺屋1・石工1・左官1,在宅諸士は村上安房,陪臣は粟屋の臣である矢田部官兵衛・小川七郎・矢田部巻之介・林市左衛門・中富元碩・岩本平・九平,当村の人数は3,163,うち163人は浜子舸子奉公人として他所出稼ぎ,牛88,船数69うち廻船38・漁船19・御用達渡舟1・渡海小船11(注進案)。渡海場所は集落西はずれにあって,御用船は村内18人が引請けて行い,一般の人は大畠・柳井などへ渡った(同前)。地域へ活気を与えたのは屋代川河口に築かれた塩田である。毛利の臣粟屋帯刀就貞が小松沖干潟100町を元禄元年に拝領し,自領の熊毛郡大河内村の矢田部三郎兵衛とその子に命じて約30町の塩田を築造させ,元禄8年には製塩を行った。寛延3年の文書には「小松村塩浜」(浜塩焼由緒/地下上申)とある。安永9年には庄屋山根氏の建議による新浜完成。文化3年・天保6年にも開作を行った。天保12年の主な産物は,白木綿7,450反,苫1,304帖,三田尻御用苫580帖,干温飩5,400把,酒267石余,粕1,870貫,糖48石余,海産物は塩4万5,500石,煎海鼠485斤余,農産物は米1,042石余・麦640石余・小豆15石余・大角豆15石余・空豆6石・蕎麦54石余・胡麻2石・唐芋3万1,304貫・大根2万6,100貫・里芋3石余・牛房150貫・櫨実150貫・茶250斤(注進案)。市は古くから月毎2度に立っていたが,大畠・柳井の市が盛んになったため不振になり,天保年間では4月の6日と21日,12月21日の3回になった(同前)。元禄年間には塩田との関係で開作港が作られ,長さ50間の波戸が築かれ,塩・穀類・綿・木綿・石炭などの積下ろしが盛んに行われた。寺院は慶長年間に開山という北方の禅宗光恩寺,寛永年間からの浄土宗万性院,寛永12年に改宗し寺号を改めた浄土真宗妙善寺,寛永年間再建という同宗浄蓮寺。神社は屋代徳神にあった神殿が貞観年間頃洪水で壊れ,御神体を海中から引き上げて祀ったという志駄岸八幡宮,瀬戸にあって「大島初発之祭神」で昔は大玉根神社と称した一宮大明神(永禄11年写の大島一宮社記/注進案),寛永6年京都石清水八幡宮より勧請の笠佐島八幡宮,塩浜築立時の元禄年間に厳島から勧請した塩釜大明神(寺社由来・注進案)。大島郡御庄屋中交代記(大元家文書)によると,庄屋は屋代村との兼帯で,享保9年から文政7年までは1か月を除いて松岡家,以後安政2年までは大元家。給領地には各々給庄屋が置かれた。明治初年塩田開作にともなう地域である小松開作村と,2km沖にある笠佐島を分村。明治4年山口県に所属。同17年には小松開作村など4か村による小松組戸長役場を小松開作村字小方に置いた。明治16年の戸数525・人口2,292。幕末から明治初期の寺子屋は,寺社を主に7か所あった(県小学校の系譜)。明治6年万性院に大島郡第二小学を設置,同8年小松小学が御蔵跡に開設(大島町教育のあゆみ・大島町誌)。一宮大明神は明治3年大多満根神社と改称し,飯ノ山にあったがふもとに移転。万性院は三蒲村の幻空寺に合併して幻性寺となり,跡地には同6年玖珂郡錦見村より浄土宗称念寺が移転(県風土誌)。同22年小松志佐村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7425402