紫福郷(中世)

鎌倉期~戦国期に見える郷名。長門【ながと】国阿武【あぶ】郡のうち。永仁4年7月16日,紫福郷住僧蓮信の高木寺毘沙門堂院主職に関する訴状について,見島三郎に見解を求めた宗康問状案が早い例である。同6年,地頭三善(見島氏)は蓮信に同院主職を宛行った。同院主職についてはこれより先,弘長3年12月長門紫福郷地頭等連署充文によると,前の地頭椿左衛門尉の時以来代々相承して田比沙門堂院主職永禅が知行しており,紫福郷地頭職は最初椿氏が,のち見島氏(三善氏)が知行したことが知られる。見島氏は以後,同院主職(あるいは別当職・免田畠)を光心房(観応元年),筑前房賢祐(応安7年)に安堵している(以上,三浦家文書/大日古)。この間建武3年4月,当郷は牛牧荘とともに忌宮神社(下関市)に寄進された(長門国史所収文書/長門長府史料)。しかし建武5年9月4日左京大夫某施行状(忌宮古文書/忌宮神社文書)によると,当郷は依然として地頭見島氏一族が支配を続行するため忌宮社が知行できない状況であった。このため貞和2年11月2日,足利尊氏はあらためて当郷の代わりとして富安名を寄進している(同前)。当郷の地頭職はのち仁保荘の領主仁保氏(平子・三浦)が継承することとなった。応永23年8月28日,大内盛見は仁保盛郷に本領仁保荘以下および給分紫福郷内の地を相続せしめた。永享2年7月13日,仁保氏の本領多々良村が他社家に寄進されたため,その代わりとして紫福郷内に30石が宛行われている。享徳4年4月13日仁保弘有書状によると,仁保氏は最初,紫福郷に地頭分として300貫知行していたが200貫に減じ,その内50貫は紫福弾正入道に与えられた。この50貫は現在波多野備後守が知行しており,結局仁保氏は150貫を知行していたことがわかる。文明2年3月23日,弘有は本領仁保荘地頭職,紫福郷地頭分150石(本領多々良村の代替分を含む)等を嫡子護郷に譲与している(三浦家文書/大日古)。戦国末期,尼子倫久が当郷に知行地を有した。慶長2年5月1日毛利輝元安堵状によると,毛利氏は尼子義久の知行地奈古郷内758石3斗4升8合,同倫久の知行地紫福郷内425石2斗9升7合等を義久の嗣子久佐将監(倫久子息)に譲与せしめている(佐々木寅介所蔵文書/島根県史8)。また同18年8月4日,毛利輝元は渋木(紫福)の内30石を吉見広頼隠居所興国院沢首座に宛行っている(閥閲録161)。これより先,享禄5年・永禄7年・元亀元年・天正14年と伊勢神宮御師橋村氏は長門国の旦那を歴訪して神宮の御札を配っているが,この時,しふきよこかい(横貝)の二郎兵衛家に立ち寄っている(中国九州御祓賦帳/県史料中世上)。山代生見村庄屋中村久兵衛書出(閥閲録遺漏2‐3)の慶長2年5月28日長州阿武郡紫福郷打渡坪付には,森ノ下・下かいち・よこかい・榎木か窪・中ノ原・はさ・きとのもと・クホ・石仏ノ台・ふたまた・よこな畠・田口などの穂ノ木名がみえている。以上のうち,よこかい(横貝)・クホ(久保)・はさ(羽座)・中ノ原(中野)は「県大小区村名書」の小字に見えており,中世の当郷の境域は近世の紫福村のそれにほぼ一致するとみられる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7425495 |