須恵(中世)

南北朝期から見える地名。長門【ながと】国厚狭【あさ】(厚東)郡のうち。元弘の乱後,筑前国博多から上洛した禅僧中厳円月は,「東海一漚集」(五山文学新集)に漢詩10首を残しているが,瀬戸内海を西から東へ渡る際,赤間関亀山の詩の次に「須恵洋」と題する詩を作り,題の下に「末【すえ】之御崎【みさき】,赤間の東に在り」として本山半島の突端本山岬の様子を描写している。次いで,浄土宗浄名寺(宇部市)の貞治3年10月20日付寺領知行分目録(寺社証文9)に「須恵分」と見え,崇西(厚東武実)寄進の円覚名や中野益吉名・恒益名・倉元名・中野新田・六地蔵浜など10筆が記載されている。このうち,中野は宇部市東須恵の小字にあるが,益吉名などの名【みよう】の名称は現存していない。下って,永禄9年12月28日,毛利元就と孫の輝元は連署して,須恵郷内の西郷遠江守の給領で,三戸新兵衛尉が管轄している25石地を高井藤左衛門尉元任に宛行い,この旨をうけて,同日,毛利氏奉行人がこの地を打ち渡すよう市川経好らに命じている(閥閲録135)。その後,この25石地は悪所であったため,毛利輝元は天正10年7月24日高井元任に代替地を与えたうえで,榎本弾正忠元忠に20石分として宛行っている。また,天正14年6月7日,榎本元忠は,自分の領地目録をつくり,市川経好等の証判を得たが,この地は公田7反半30歩と平田1町8反であり,このうち4反は不作としている(同前18)。郷内にいた毛利氏家臣としては三戸氏がある。永禄年間かと考えられる三戸佐渡守有次の勲功書きによれば,毛利元就の家臣三戸佐渡守は,安芸国から移って須恵の切寄せの要害に居していたところ,木戸浦と刈屋浦に,夜間海賊が大挙して船を寄せて上陸したので,一手の者でことごとく討ち捕えたと記している(同前56)。天正11年8月18日に,野村東市允秋則が記した同年9月15日の厚東恒石八幡宮(宇部市)の神事役者社参之次第では,他の諸郷とともに,須恵郷の者が祭礼の神輿を担ぐために4人,御幣持ちに1人,流鏑馬に1騎と笛吹きに奉仕している。天正16年3月2日に野村志摩守が記録した同年9月15日の同社祭礼の注文でも,天正11年のときと同じ役を須恵郷の者が奉仕することになっている(注進案15)。同16年閏5月7日には,毛利輝元が,水野善兵衛尉元久に対して,須恵郷内37石足地を与えている(閥閲録146)。また,無年号の文書ではあるが,弘治3年内藤氏の家督をついだ内藤隆春の被官縄田久千代を「須江」へ在村させ,居屋敷や名田等を以前の通りに知行させることについて,内藤氏の家臣勝間田新四郎盛俚が,南野筑後守と財満新右衛門の両人に報じた文書がある(注進案15)。郷域内の神社には,黒石に松江【しようごう】(松郷)八幡宮がある。同社には,天文12年の大般若経が残っており,通真が願主となって,目出村や城戸浦も含めて郷内の者が助成して完成させたことがわかる(小野田市史史料上)。また,「注進案」15には,同社の随神台座に「文明六年,別当快源,仏師上総」と記されているという記載がある。同社は天正19年の毛利氏八箇国時代分限帳(県文書館所蔵文書)には須恵郷八幡として9石8斗7升と記されている。郷の西部の目出には松江【まつえ】八幡宮があり,「寺社由来」4には,応仁3年8月18日江本四郎丸が願主となって,領主である大内氏の一族の陶殿の福寿や万民快楽を願って社殿を建立するとした棟札写を載せている。郷内の寺院には曹洞宗万福寺があり,いまは小野田市波瀬の崎北にあるが,「寺社由来」4では天正年間のころまで黒石村にあったとする。また,浄土真宗では金竜山蓮光寺があり,「寺社由来」4によれば,開基蓮光は,文安元年5月26日に死去し,寺内に墓があると記している。南部の原の中原には小名開蔵寺がある。黒石には城址がある。堀切の跡が小道となって残っており,小名に「城下【じようした】」「城【じよう】」が残存,黒石の北隣りの中野には小名「土井」がある。なお,文正元年12月8日付で陶弘房が理真上人に宛てた寺領安堵状(閥閲録163)には「厚東郡須恵別府内長楽寺」と見える。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7425611 |