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末延郷(中世)


 南北朝期~戦国期に見える郷名。長門【ながと】国厚東郡のうち。鎌倉期には村名で見え,元徳元年5月朔日の横瀬八幡宮正本記に「嘉暦二〈丁卯〉九月十六日厚東郡末信村正八幡宮奉勧請」とあるのが初見(横瀬八幡宮文書/宇部市史資料編)。なお,文明18年3月日の「長門国厚東郡持世寺根元事」と題された由緒書によれば,建長5年北条時頼室が「末延郷田小野荒野并樗原車地」を持世寺に寄進したという(寺社由来4)。ここに見える田小野は江戸期には車地村に含まれた。暦応3年3月8日,厚東武実は「厚東々方末延郷内持世寺」などを京都元応寺に管領させている(注進案15)。持世寺は江戸期には吉見村に属しており,当郷は江戸期の末信村よりも広い境域であったことがわかる。貞治3年10月20日の浄名寺領知行分目録に「一,末延郷四ケ小野内河中須」と(同前),応永15年11月25日の大内盛見書下に「長門末延四ケ小野」と(注進案13),さらに永正13年5月11日の横瀬八幡宮縁起箱書に「末延郷四ケ小野 横瀬八幡宮」とあることから(宇部市史資料編),当郷が厚東郡東方に属し,少なくとも16世紀初め頃までは現在の小野地区を含んでいたことがわかる。当郷には,貞観元年石清水八幡宮から勧請された正八幡宮があり,四ケ小野(小野地区)以南,厚東川以東の地域を祭祀圏とした(注進案15・県神社誌)。のち永享元年,文明17年と再興されている(同社棟札/寺社証文9・注進案15)。また当郷は棚井の恒石八幡宮の祭祀圏にも属していた。そのため,天正11年8月18日および同16年3月2日の恒石八幡宮神事役者社参之次第によれば,流鏑馬の際の鉾持を宇部郷と末延郷が隔年で勤め,また命婦1人を勤めていた(注進案15)。棚井の浄念寺には応永11年正月8日の年紀を存する「薬師寺 長門国厚東郡末延村各敬白」という銘のある鰐口があるが(同前),これは当郷内にあった東光寺古跡薬師堂の什物であったという(寺社由来4)。天文17年7月3日の須子経詮譲状によれば,「末延郷之内温見村拾石」などを子の宮寿丸に譲っている(譜録/小野田市史史料編上)。なお,永徳元年4月23日,大内義弘は河山新宿(甲山市・宇部市)の境域を定めているが,この中で西の境界を二またせの河とした。山陽道が山中市を経て木田で厚東川を横断する場所のすぐ下流に中州(中島)があり,川が分流していた。このため厚東川を二俣瀬川と称したのである。二俣瀬川の舟渡しの場所は旧山陽道が川を越える木田橋のすぐ上手あたりといわれ,慶長12年5月28日「厚東郡木田村〈二俣瀬渡給〉打渡坪付事」によると,この渡には渡守が置かれ,田畠屋敷樹木等計13石7斗5升余の渡守給が定められていた。のち寛永3年頃又左衛門,宝暦13年頃藤本五左衛門が渡守として見えている(注進案15)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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