錦見(中世)

戦国期に見える地名。周防【すおう】国玖珂【くが】郡のうち。天文24年閏10月7日の毛利隆元・元就から中村諸卜軒への給地宛行状で,「岩国錦見内拾石足」とある(閥閲録167)。中村与右衛門の先祖書付と先の給地宛行状を合わせて考えると中村諸卜軒は天文24年の厳島合戦で毛利方として働き,岩国のうちの錦見や本庄で弘中隆兼や弘中大炊允の先給地など33石足を得て,錦見に住んでいたが,子孫は吉川氏入封の頃であろうか,大島郡久賀村へ浪人となって移り,百姓となったという(同前)。中世末岩国山西麓には真言宗の竜護院があった。また,普済寺は以前,無量寿寺があったところで,慶長6年2月吉川広家が森脇飛騨に与えた覚書(藩中諸家古文書纂)に「無量寿寺寺跡悉相渡候条,寺再興勝手次第之事」とある。その東隣に江良丹後守襲撃事件で知られる禅宗の琥珀院があったが,これまた廃寺となった。大円寺の背後の丘に亀尾城がある。「享保増補村記」に「亀尾城山,白崎八幡宮の大宮司弘中三河守居城の跡なり。弘治厳島合戦に弘中討死して,城破却せしなるべし」とあり,「玖珂郡志」は同城について「高さ十八間,平なる所六段。内広段竪二十三間,横十八間,段々堀切も有之。山下を城の前と云。往古は左右沼の由」とある。当地区東南端にある関所山からは,かつて矢の根や瓦,椀具などを掘り出したと伝えられ,「享保増補村記」の中に「関所城山永禄年中九州陣之時,当国の人質をとりて桂兵部丞在番地。其折なるべし,山代の一揆蜂起して,関所山に攻来りけるに,兵部丞計を廻して敵を追払たる由,古記に見えたり」とある。また同書に「散畠【さんぱく】の末を市場といひ,古市といへり。是は古,柳原に市あり,夫より此辺迄は続て市有し故なりといへり」とあり,散畠の下手からいまの錦川筋一帯は,当時は広い州であって,商人の集まる市場となっていたという。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7426153 |