二見浦(近世)

江戸期の浦名長門【ながと】国豊浦郡宇賀村のうち西豊浦郡奥支配に属す宇賀二見浦ともいい,ほかに二見後地がある響灘に注ぐ二見川河口部に位置する長府藩領「旧高旧領」には二見後地9石余とのみ記されている地下上申絵図では,二見川河口に漁師と思われる家8軒,やや東の萩原山近くに農家と思われる2軒がある安政年間には,当浦の家数63,人数395(男201・女194),船数は4反帆船3・3反帆船5・漁船9・磯小船7で,地料銀105匁,船運上銀57匁2分を負担したほかに,4反帆船2・3反帆船15・漁船合わせて57とあるが,あとに書き足した分は運上をまぬがれたものであろうまた,二見後地は,「村浦明細書」に,田は畝数3反余・高8石余,畑は畝数1反余・高7斗余,家数は矢玉・二見両後地で農民20,人数99うち男52・女47,牛12当浦は江戸中期まではわずかな人数の漁村で,明和6年頃対馬の漁民,また,一説には筑前箱崎の漁民が定住したと伝えられるが,これは近傍が有力な大敷網の漁場であったためであると思われる万治2年の御地料銀御算用申上目録では,万治元年分として,上納銀93匁8分があり,ほかに歳暮肴・神馬藻・鰑・干鯖などがあった同3年には「川口十分一銭」が課せられており(豊西郡宇賀山役並川口十分一,其外諸運上共ニ御算用),藩の津出蔵や炭蔵が置かれていたためであろう宇賀大河内の庄屋山本家文書によると,延宝元年,元禄2~4年と大河内米は二見浦の廻船で運んでおり,寛政4年の長門周防両国中浦々廻船並持主では廻船6艘とあるが,のちには小型廻船のイサバが,この地方の海産物や林産物を積んで盛んに活躍したまた,網漁が盛んで,網には夏大敷網・秋大敷網・小鰯網・魬網があり,のちには大謀網があった文政5年には二見浦百姓中として大敷網の経営が個人から惣浦共有に移り,慶応4年にも大敷網を再興した釣漁も盛んで,入漁料を払って矢玉浦の海域に出入りしたが,矢玉浦や湯玉浦との漁業紛争が絶えなかった漁家が密集したためたびたび大火に遭い,明治2年には凶作と火災のため長府藩から米28石を借用した神社には若宮社・三社堂があり,金比羅社・祇園社を含祀したまた,竜王社・蛭子社2・五年神などがあった寺院には観音堂があった(村浦明細書)

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7426434 |




