船木郷(中世)

南北朝期~戦国期に見える郷名。長門【ながと】国厚東【ことう】郡のうち。舟木とも記す。山陽道に沿う交通上の要地。厚東浄名寺所蔵文書の貞治3年10月20日付同寺知行分目録に吉部村のうちとして「一所壱町船木法師丸」とある(注進案15)。また,足利義満が康応元年に西下した際の記録「鹿苑院西国下向記」の中で,神功皇后伝説を紹介した部分に「長門国船木郷にて杣木を執て,高泊といふ浦にて四十八艘の船を作て出し玉しに,舞すかたにて小船にさほさしてまいりむかふ,海上に玉うかひたり」というものがあり,この伝説は宗祇の「筑紫道記」などにも見える(県史料中世上)。また,永享4年5月27日陶越前守盛政は,船木大野山瑞松庵の四至牓示を定め,所領を寄進した。それによれば,四至は,東は竜鳴沢薬師堂,西は有保溝大石,南は有保山,北は井手下とされ,菜園分として宗貞名内に1反小,山下茶園60歩,長富の井手下に茶園を加え60歩となっていた(寺社証文4)。下って明応5年,大友氏の内紛で,臼杵から筑前に脱出した大友政親の一行が,赤間関で大内氏方の杉信濃守に捕らえられ,大友政親は「ふなき地蔵院と申す寺」にて生害させられ,政親の御供衆18人も自殺したという記述が「宇佐永弘文書」にある(大分県史料4)。船木に地蔵寺という地名があり,「注進案」15舟木村に,古墓が地蔵寺村にあり,「誰人の墓と申す儀は不詳,諺に山伏の墓と申し伝え候」と記す。なお,同書舟木市村の浄土真宗正円寺の寺伝に,船木村地蔵院と申す真言宗破壊寺があったとしている。伊勢御師の回国記録「中国九州御祓賦帳」の享禄5年と元亀元年分には,近隣の万倉・宇部・厚狭【あさ】は見えるが船木はなく,永禄7年の分に「ふなきの長田左馬助殿」,天正14年分に「舟木の分 与三左衛門殿」が見える(県史料中世上)。弘治3年6月27日毛利氏奉行人等は,船木郷を検地なしで拝領したいという杉松千代の申し出を,安芸にいる毛利氏に伝えることを約束し,同年12月5日毛利元就は,杉氏家臣の神代若狭守・岩武備後守両名に対して,その件について当主である子息毛利隆元に伝えるので,誰か一人安芸国に逗留するよう申し入れており,同年12月22日付で隆元は,船木について亀山領を除いて検地なしで与えることを杉松千代に報じている(閥閲録79)。また,弘治3年10月6日付で毛利隆元は,山口の祇園社に対して「厚東郡船木郷内千崎村」の御供料所で同社大宮司時重執沙汰分である5石足分について,先証となる文書が前年弘治2年の内藤隆世と杉重輔の争乱の際紛失したので,大宮司申請の通り,時重の当知行を認めている。なお,この地については,永禄9年閏8月7日毛利元就・同輝元連署状,永禄12年閏5月24日付毛利輝元裁許状で,舟木御祭田の当知行を認めている(寺社証文20)。天正11年8月18日付の厚東恒石八幡宮神事役者社参次第では,流鏑馬1騎を奉仕することになっており,同16年にも船木郷は流鏑馬役を奉仕することになっている(注進案15)。天正15年7月の「九州道の記」によれば,細川幽斎は,赤間関から周防山口を見物するため,7月6日に在所の荷を負う馬を借りて船来(船木)まで行き一泊して,7日に山口に着いている(県史料中世上)。毛利輝元は天正16年閏5月10日厚東郡船木郷内40石9斗足を吉田平右衛門尉へ(閥閲録163),同年6月11日同じく22石足を岡源四郎へ(同前62),同年6月20日同じく10石足を杉右京亮へ(注進案15),それぞれ与えている。また杉重良は,天正年間と思われる6月21日付で,伊藤孫次郎先知行の地である船木郷内10石足を家臣伊香賀兵庫助に与えている(閥閲録120)。この間,弘治3年8月23日付で毛利氏奉行人が浄名寺への料所の寄進を報じているが,そこには「船木別苻内弥介名五石足」とある(注進案15)。船木郷内の中世寺院としては瑞松菴があり,「注進案」15の永享12年12月8日付守邦和尚の宝物払子之縁起写では,定庵守禅が自分の師である石屋真梁を開山としたとしている。神社には岡崎八幡宮がある。同社には天正4年5月3日付で,厚東郡船木郷八幡社壇を新造立するという棟札写があり,大檀那は杉重良,本願は万倉郷正楽寺住山宗陽伴侶宗正,作事奉行中山神左衛門尉,京大工塩河対馬守のほか,大工や杣衆の名が記されている(寺社証文4)。なお,八箇国時代分限帳(県文書館所蔵文書)に船木市給8石余,船木八幡7石余が見え,厚東郡に番匠給7給がある。各番匠給の比定は困難であるが,船木に残る番匠の地名は必ずや関連の地と思われる(楠町の歴史)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7426435 |




