豊東郡(中世)

鎌倉期~江戸初期に見える私郡名長門【ながと】国豊浦郡東部の汎称で,現在の菊川町域から下関市の内日・彦島・赤間関・生野・長府・王司・清末・小月の8地区にまたがる郡域であったと推定される「長門国守護職次第」には「四 豊東郡司元家」が見える(続群4上)寿永3年2月源平争乱で平家が摂津一ノ谷に城郭を構えた際,長門国の郡東司秀平は郡西大夫良近・厚東入道武道らとともに平家方に加わった(源平盛衰記)豊浦郡東部の支配権をもつ豪族と推定される豊東郡司元家と郡東司秀平の姓氏は不明である豊東郡名初見は,建仁3年2月の庁宣(正閏史料外編1赤間宮蔵文書/鎌遺1342)で,「豊東郡内以申請坪々早可奉免」とある次いで応仁3年11月の庁宣に「在豊東北条公田」と見え,豊東郡北条公田中の若宮神田宗利名作田1町余が若宮神田として免除されている(寺社証文10)下って寛正2年6月29日付の「従山口於御分国中行程日数事」には,訴人の申状によって召文をしても,遅参がちで日数がかかることが多かったため,山口・豊東郡間は2日,請文の到来日限は9日と規定している(大内氏掟書)次いで,文明13年6月の一宮神領豊東・豊西両郡田数并土貢注文案写(住吉神社文書/住吉神社史料)では,「豊東郡分」として光富名内赤田代・有光名・恒武名内椙杜・重富名・岡枝郷桜井村・肥田名などの名の地名が見えるその後,戦国期年欠4月10日付の内藤隆春所領注文(閥閲録99‐1)には「豊東郡之内」として貴飯畑・玖野畑・楢崎村・保木村・吉賀村・宇部清末両所分・宇津井村の地名が見えるその他,豊東郡は戦国期を通じて散見されるが,近世初期の寛文4年諸郡の廃合が行われ,豊東・豊西・豊田の3私郡は廃されて豊浦郡に復した(毛利十一代史)

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7426457 |