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那東郡(中世)


平安末期~江戸初期の郡名郡名は江戸初期成立の「阿州将裔記」に「那東郡平島庄」と見えるだけであるが(群書21),那西郡については,平安末期の康和5年8月16日の阿波国大滝寺所領注進(前田剛二氏所蔵文書/平遺1523)に「在那西郡吉井加毛」とあるのが初見であり,平安末期に那賀郡は那東・那西両郡に分かれていたと推定される郡域は,戦国期の阿波国内の国人級武士を書き上げた「太田文」(徴古雑抄3)記載の武士の根拠地から推定して,現在の那賀郡那賀川町・羽ノ浦町東部および阿南市長生【ながいけ】町以東,山口町以南の同市域に比定される当郡内の荘園としては,平安末期から見える竹原荘,鎌倉期から見える牛牧荘,南北朝期以降の桑野保・阿良多野荘などがあり,那賀山荘は那東・那西両郡にまたがり,当郡では平島郷が同荘内に含まれた南北朝期,竹原荘内本郷および牛牧荘の両地頭職に補任された安宅氏は,紀伊国牟婁【むろ】郡安宅【あたぎ】荘を本貫とする熊野水軍の頭領で,観応元年6月,足利義詮の命を請けて淡路国の海賊の討伐を行い,その功によって,幕府から前記両所の地頭職を宛行われている(安宅文書/徴古雑抄2)安宅氏はのち南朝方に帰順したらしく,正平14年8月,後村上天皇から安宅備後守頼藤に阿波国南方攻略を命じた綸旨が下っており(同前),同17年12月には南朝方の源某(足利氏か)から天竜寺領,補陀寺領を除いた「阿波国以南方之闕所並本所領」が勲功の賞として宛行われており(同前),この地域に勢力を扶植したと推定されるが,詳細は不明であるなお,阿南市橘町大浦の海正八幡神社には,桑野保に関する南北朝期の文書18通が,また同市宝田町久保田の隆禅寺には鎌倉期~南北朝期の竹原荘関係の文書の写し3通が伝わる東大寺領摂津兵庫北関(現神戸市)に入港した通関記録である「兵庫北関入船納帳」によれば,文安2年の1年間に平島郷(現那賀川町中島浦)を船籍地とする船が20回,兵庫北関に入港しており,その積載品は材木・榑となっており(東大文学部・灯心文庫蔵),平島郷は那賀川上流で伐採された材木の積出港となっていたことが知られる戦国期の天文3年,守護細川持隆は,将軍家の相続争いから淡路国志築(津名郡)に渡っていた室町幕府第10代将軍足利義稙の養子義維(義冬)を平島の北に迎えた(阿州足利平島伝来記/徴古雑抄6)義冬は永禄年間に平島塁を修築した平島館(那賀川町古津)に居住し,上洛の機をうかがった同9年6月,義冬の子義栄は,三好義賢の家臣篠原長房に擁されて畿内に進出し,同11年2月,第14代将軍となった平島館にあった義冬の子孫は代々平島公方と称され,初代義冬から9代義根まで数える現在の那賀川町赤池にある西光寺は,平島公方の菩提寺で,同寺には歴代公方の墓がある天正4年12月,細川持隆の子真之は,三好長治の専横を憎み,勝瑞城を脱出して那西郡仁宇山(現鷲敷町)に出奔した(阿州古戦記/徴古雑抄8)翌5年3月,長治は当郡内の荒田野(現阿南市新野町)に出陣し,真之を討たんとしたが,一宮成助・伊沢頼俊などの反三好勢力が台頭したため退陣したしかし,すでに同3年9月には,土佐の長宗我部元親が海部郡内に侵攻しており,当郡にもその勢力を伸ばしつつあった桑野城主東条関之兵衛はいち早く元親に帰服し,天正8年には牛岐城主新開忠之(道善)も元親の軍門に降っている(南海通記/集覧7)元親は,天正10年末に阿波国をほぼ手中に収めた後,弟香宗我部親泰を牛岐城に入城させ,阿波一国の旗頭としたが(同前),同13年6月からの羽柴秀吉軍の進攻のため,同年阿波国から退却した天正13年蜂須賀氏の領有下に入った天正13年蜂須賀氏の支配に抵抗して仁宇谷の土豪らが反乱した際に,当郡「荒田野口」で森安右衛門兄弟がその兵を討ち鎮定に協力している(森安右衛門文書/徴古雑抄5)蜂須賀氏が領内の要地に置いた阿波九城の1つ富岡城には細山主水(賀島主水)を配して,那賀川下流域,南方の押えとしたが,同城は元和元年の一国一城令により,のち廃城となった江戸前期の寛文4年5月13日の郡併合御触書写(森家文書/民政資料)によれば,「那東那西郡一郡に成那賀郡と改候」とあり,当郡と那東郡は再び併合されて那賀郡となり,当郡は廃郡となった




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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