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金毘羅村(近世)


江戸期~明治6年の村名那珂郡のうち琴平山(象頭山)東麓,金倉川流域に位置する地名の由来は,琴平山に鎮座する金毘羅大権現による江戸期は象頭山東側一帯は同山上にある金毘羅大権現の社領であり(別当は地内の真言宗金光院),山麓の金倉川付近には門前町が形成された社領高は,「寛永17年生駒氏惣高覚帳」では「小松ノ郷左文共」と記されたもののうち256石余,近隣の苗田【のうだ】村のうち50石,木徳村のうち23石余の計330石余が見え,元和4年には院内廻73石余,苗田村のうち50石,木徳村のうち23石余とされ,慶安元年の幕府の朱印高は330石,「天保郷帳」では金毘羅社中として73石余,「旧高旧領」では金毘羅村として330石門前町には,新町・片原町・阿波町・内町・札之前町・高藪町・西山・坂町・金山寺町・谷川町がある(弘化3年金毘羅金堂寄進帳)慶長6年の生駒一正判物に,金毘羅において新町に他国から移ってきた者には諸公事を緩め住宅を設けられるよう金光院に命じている(新編香川叢書)江戸初期には金光院縁故の者や浪人などの来住者があって門前町が形成されはじめ,寛永年間山麓で門前町に近い多聞院(金光院配下)の監督下に町年寄が置かれるようになったもと浪人であった家では酒屋を営む者も多く,元禄10年の「金毘羅社領酒屋寒造り酒仕入米高覚帳」によると米高206石,酒高152石余でうち上酒18石(代銀3貫余),中酒41石余(代銀6貫余),下酒93石余(代銀11貫余)で,羽屋(仕込米35石)・角屋(仕込米20石)などの名が知られる(金刀比羅宮史料)諸国からの金毘羅参詣が隆盛に向かう江戸中期以降は地内に宿屋が発達しはじめ,芳橘楼余島屋には中島棕隠・劉石秋などの文人とそれを迎える榎井【えない】村の日柳燕石などが訪れ,内町の水明楼森屋は文久2年東隣に本陣ができるとその管理を委任され,慶応2年には森屋が本陣を買い取っているのちに金毘羅の土産として著名となったものに飴があり,享保6年大門の所の飴売り達が高利を得ていたのに対し,金光院は当地の物価高が諸国からの参詣者の評判にならぬよう注意を与えているこのほか宝暦10年には当地に素麺師かも屋甚左衛門が移ってきており,白髪素麺と名付けて売る家もあったまた,象頭山に種々あった薬草で作った薬も売られていた(同前)金毘羅参詣が盛んになるとともに門前町もにぎわい,芝居や富籤の興行も催され,五条村・苗田村などの近村から遊女も入り込んだ天保元年には尾上菊五郎,同4年は市川蝦十郎など有名な役者も来演するようになり,同6年富籤の興行場を兼ねた瓦葺の定小屋(金毘羅大芝居)が建てられたなお,文政8年から行われた富籤興行は天保10年大坂の代官所役人によって禁じられた(金刀比羅宮史料)隣接する榎井村・苗田村・五条村は幕府領で池御領などと呼ばれ,金毘羅祭り(頭人祭り)の頭人を勤める家筋を有して金毘羅社との関係が深く,おのおの諸方から当地に至る金毘羅参詣道の入口に当たってもいた延宝2年この池御領3か村の者が社領内で新たに池を掘りはじめたことから,同3年複雑になっていた社領と池御領の境界を整理するため一部の土地が交換され,同4年境に塚を築き絵図が作成された享保6年の社領田畑町歩人数書上帳によれば,人数2,465(男1,319・女1,146)寛延3年の社領人数書上帳では,人数2,524,うち出家18・金光院家来413(男234・女179)・山伏3・座頭1・道心2・尼1・百姓164(男103・女61)・町人1,922(男1,121・女801)明治2年倉敷県,同4年丸亀県,同年香川県,同6年名東【みようとう】県に所属金毘羅大権現は明治元年6月琴平神社,同年7月金刀比羅宮と改称され,同4年からは事比羅宮と記されるようになった明治維新後森屋持の本陣は進駐してきた土佐藩に買い上げられて同藩兵の陣屋となっていた明治4年に百姓の打毀があり,宿屋である前田屋や森屋とともに本陣も焼き払われた明治6年神社名の変更があったことから村名も琴平村と改称




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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