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讃岐国


中世の史料に見える讃岐の荘園は50余りであるが,そのうち平安期から史料に現れるのは,安楽寿院領野原荘・多度荘・富田荘ほか10数荘で,ほかは鎌倉期以降の成立と思われる。成立事情のわかる荘園のうち,開発領主の寄進によって成立したものは,九条家の家司藤原有長が地主の譲りをうけて立荘した九条家領詫間荘(九条家文書1/図書寮叢刊)ほかわずかしかなく,ほとんど国司・知行国主・上皇などの寄進で立てられている。特に鎌倉後期に,日吉社領柞田荘・祇園社領西大野郷・善通寺領良田郷(郷務職)・醍醐寺領郡家郷・南禅寺牧護庵領垂水荘など上皇寄進の荘園が多いのは,讃岐国が後嵯峨上皇以後大覚寺統の院御分国として伝領されたことによると思われる。後宇多上皇の譲りをうけた昭慶門院の嘉元4年6月の御領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)には,前記安楽寿院領などの荘園のほか,「讃岐国」として31の郷保名があげられている。讃岐の在庁武士は,平安末期には平家の家人になっていたらしいが,一の谷の平家敗戦後の元暦元年5月頃,綾氏(讃岐藤原氏),三野氏など中讃・西讃の武士が橘公業に従って源氏に参じている(吾妻鏡)。東讃の武士の動向は不明だが,江戸期の書「全讃史」は,讃岐氏(凡氏)の直系景時・経時が,元暦年間頃平家に従って忠勤を励んだと伝えている。承久の乱においては,綾氏の一族である羽床重基が後鳥羽上皇方につき,乱後所領を没収された(綾氏系図/続群7上)。これによって羽床氏の族内における勢力は後退し,かわって幕府方に参じて戦功のあった香西資村が綾氏の惣領的地位についた(南海通記)。讃岐の守護には,鎌倉初期に後藤基清・近藤七国平が任じられており,仁治年間頃から宝治元年まで三浦氏,宝治合戦で三浦氏が滅亡してから鎌倉末まで北条氏一門がその職にあった。讃岐に地頭が置かれたのは主として承久の乱後と思われる。氏名の明らかなものをあげると,小早川政景(与田郷)・三浦康連(坂下荘)・壱岐時重(法勲寺)・平公長(木徳荘)・島津忠義(櫛無保)・小笠原長清あるいは長経(金蔵寺),沙弥道円=三浦和田氏(真野勅旨郷),左大臣法印厳恵(神崎・吉原荘)・秋山光季(高瀬郷ほか)・足立遠親(本山荘)・近藤国弘(二宮荘)などであるが,厳恵が随心院の僧であるほかは東国武士あるいは幕府の有力者である。彼らのほとんどは南北朝末期までに史料から消えるが,高瀬郷を本拠とした秋山氏(秋山家文書/新編香川叢書),二宮荘を下地中分した近藤氏(臨川寺領目録/天竜寺文書)などは,領主制を発展させ,戦国期には西讃を支配した香川氏の家臣として名をとどめている。南北朝動乱に際し,財田城主,羽床氏,植田一族などが一時南朝方についたが,漸次讃岐守護細川氏の支配に服し,貞治2年細川頼之が,南朝側についた細川清氏を白峰山麓の高屋城(坂出【さかいで】市林田町)の戦で破ってからは(太平記),頼之の子孫が代々讃岐守護となり,鵜足郡宇多津に守護所を置いて領国支配を行った。古代以来の在地武士の寒川氏・植田氏・香西氏を中心とする讃岐藤原氏などがことごとく細川氏の被官となったほか,細川氏に従って東国から安富氏・由佐氏・奈良氏・香川氏などが来讃し,安富氏は東讃,香川氏は西讃の守護代を務めた(蔭涼軒日録)。荘園の多くは細川氏被官の請所となった。醍醐寺領東長尾荘―寒川氏,同寺領陶保―香西氏(醍醐寺文書),宝鏡寺領南条山西分―香西氏(宝鏡寺文書),随心院領善通寺弘田郷・一円保―香川氏(善通寺文書/新編香川叢書),興福寺大乗院領藤原荘―新開氏(大乗院寺社雑事記),祇園社領西大野郷―近藤氏(八坂神社文書)などがそうであるが,これらの荘園は,応仁の乱前後には事実上彼らの領地となっていったと思われる。国衙領は室町期には万里小路家の所領となったが,「建内記」の嘉吉元年12月の記事によると,讃岐守細川持常の弟成就院増顕が目代として年貢を送進している。持常は阿波守護であり,讃岐国衙領は阿波勢力の基盤であったとみられる。永正4年管領細川政元を殺害し,その養子澄之をたてて政権を握ろうとした香西元長が,細川澄元を擁した阿波の三好之長らによって討たれると,讃岐国内においても,三好氏の出身で植田一族十河氏の養子となった十河一存とを中核として三好氏の勢力が拡大し,永禄元年多度・三野両郡の境にある天霧山城に拠った香川之景が,阿波・淡路および東讃・中讃の軍勢を率いた三好義賢の攻撃をうけて降伏したのちは,讃岐全土が三好氏の勢力下に入った(南海通記)。三好氏は一存のあとを継いで十河家に入った義賢の子十河存保を通じて讃岐を支配したが,その支配力は十分でなく,讃岐諸将はそれぞれ中国の毛利氏や織田信長などと通じ,また互いに抗争を繰り返した。天正6年,土佐の長宗我部元親が藤目城(観音寺市粟井町)・財田城(三豊郡財田町)を攻略して讃岐侵攻を開始すると,香川之景がこれに服したのをはじめとして,讃岐の武士たちは次々に元親に降り,天正12年夏,十河存保が最後の拠所とした虎丸城(大川郡大内町)が落城して,その全土が長宗我部氏に服した。しかし翌13年,元親は豊臣秀吉の四国平定に屈伏して土佐に去り,讃岐は秀吉の部将仙石秀久の入国を迎えた。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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