塩屋町(近世〜近代)

江戸期~現在の町名江戸期は高松城下の1町江戸期は1~3丁目があった高松城の南東,城下の東部に位置し,通町の南に接続して南北に町筋を形成する町名は塩焼きに由来するものであろう寛永年間の高松城下図屏風では通町筋の東側は塩田に働く人影と釜屋の煙が描かれている生駒氏時代の寛永古地図には井口町・新通町に相当する地域に「塩やき町」の名称が見え,塩屋町に相当する地域は「通町筋」で包括されている「政要録」には初代高松藩主松平頼重入部以後,城下の東は今橋・塩屋町を境とすることが記され,当地は城下の東端であった寛政元年の「御領分明細記」によると1丁目と2丁目があることがわかる同年の高松城下絵図では塩屋町2丁目は途中で濠が割りこみ,東に曲がったところに深妙寺がある2丁目の南端も堀で区切られている天保元年塩屋町2丁目南端から杣場川(玉川)の高橋に通じる塩屋町口のところにあった橋元(本)屋前が塩屋町3丁目と改称された安政年間の古地図ではその向かいに番所が設けられている町筋には豪商の邸宅や商家が軒を連ね,袋屋勘四郎の老松園や菊屋逸三の住いもこの通りにあった袋屋勘四郎は後藤漆谷の通称で,詩文をよくし,城下でも豪商として知られ,文化12年頼山陽が来訪するなど,頼山陽・柴野栗山・長町竹石(画家)など雅友が多かった菊屋逸三は醸造業を営む豪商であったが「捷作(即興)ノ俳諧師」として知られた城下への出入口の地は出晴と呼ばれ,近くに祇園社(八坂神社)があり,3つの道と2つの水路が交差しており,当町側に番所と大木戸があった明治期になると博文社(自由民権運動下の啓蒙学習結社)のメンバーである中野滝次郎が木屋(清酒醸造業)を営み,讃岐の糖業振興に奔走した井上甚太郎が高松立志社の拠点を構えたのも当町である明治8年戸数177・人口653(梶山家文書)同9年啓蒙小学校が設立され,同17年には第二高松小学校が設置されている明治5年頃八坂神社境内に芝居小屋ができ(高松市史年表),同7年には当町出晴に春長楽があり,明治中期頃には歌舞伎座歓楽座も設立された(高松市史)明治23年からは高松市の町名となる同31年に讃岐馬車合資会社が出晴を起点として高松~長尾間(16km)に馬車を走らせた午前6時20分初発,40分ごとに午後5時30分まで16往復した所要時間2時間,運賃は10銭であった同45年高松電気軌道が出晴~長尾間に電車の運行を開始したこうして出晴は交通の要所となり,農村地域から高松にくる人々にも出晴の名が知られるようになったやがて市内電車の瓦町駅ができ,昭和5年に高松琴平電鉄の高松駅(瓦町)が完成したことから人の往来が,瓦町に集中したことによって,出晴付近は寂れたが第2次大戦後は商店街となって再びにぎやかになった昔の面影はなくなったが八坂神社と出晴の名は市民によく知られている明治30年頃には,薬商5・煙草商1・紙商3・油商1・糸物商1・染物商2・質屋商1・呉服太物商2・酒類商2・醤油商1・生魚商3・反古問屋2・肥料商3・古道具商2・八百屋物商4・舶来小間物商1・小間物商1・茶商1・菓子商5・宿屋業1・筆墨諸紙商1・履物商1・足袋商2・傘商2・金物商1・線香商1・洋灯商1・万物品店2・炭薪商1・材木商1・桶物商1・畳表商1・蒟蒻製造販売1・蝋燭商1・製紙原料販売1・鍛冶師1・彫刻師1・理髪床3・医師1・弁護士1(繁昌懐中便覧)大正期から昭和初期には工業化が進み槙田鉄工所・鶴尾鉄工所・明定缶詰製造工場・加賀藤製麺所・東洋度量衡・高松紙商組合・千疋屋(ゴム製品)・堤商店(ガラス)・三木忠商店(砂糖販売)・千葉商店(砂糖販売)・帝国被服・亀友商店(荒物漆器販売)・川西実次商店(製紙)などが設立されている大正期,八坂神社から北へ塩屋町の裏通りを築地町に出る道に異人屋敷があった(高松今昔記)世帯数・人口は,昭和16年の世帯数142・人口823(男396・女427)同20年の高松空襲で当町は全焼し,同28年には115・548に復興,同40年151・598,同50年114・387,同55年133・人口385昭和39年一部が末広町・福田町・塩上町1~3丁目・御坊町となり,御坊町・野方町・福田町・塩上町の各一部を編入

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7429648 |