福岡村(近世)

江戸期~明治14年の村名。香川郡東のうち。箆原【のはら】郷に属す。はじめ生駒氏領,寛永19年からは高松藩領。当村旧来の地は御坊川南の内陸側(現上福岡町)であり(香川郡東絵図),海岸寄りの御坊川北側(福岡下)地域は,寛永14年西島八兵衛の干拓以来開拓してきた土地であり,江戸期に東浜村の小地名に見える福岡は(政要録),干拓地スベリ(洲端)付近のことであろう。西島八兵衛が当地やスベリ・木太・春日の新田を開いた時,杣場川の今橋から御坊川の千代橋を経て木太・春日・志度にと通じる下往還(東下道,浜街道)も整備され,ほぼこの下往還以南が当村(現在の上福岡町)にあたり以北がスベリとなる。村高は,「寛永17年生駒氏惣高覚帳」251石余,「貞享元年高辻帳」53石,「天保郷帳」271石余,「旧高旧領」591石余。千代橋の上流に御坊川橋があり,長尾街道が村の中央を貫く。御坊川のほとりに三好実休の建てた勝法寺跡がある。従来の楠川が同寺の存在によって御坊川と呼ばれるようになった。実休ははじめ寺領を松島の地で150石寄進していたが,初代高松藩主松平頼重は寺領を当村の地に代え,朝廷に奏請して京都興正寺に寄進した。興正寺に宛てた御朱印証文では「楠川庄福岡村ノ内百三十石」であったことが知られる(三代物語)。勝法寺はのち御坊町に移転,興正寺別院の末寺となる。御坊川橋の南東に寛文年間藩の大番頭を勤めた朝比奈甚五兵衛泰光の別荘である朝比奈屋敷があった。その東南に弁財天神社があり,別名を浪指神社という。明治4年高松県,同年香川県,同6年名東【みようとう】県,同8年再び香川県,同9年愛媛県に所属。明治8年の戸数284・人口1,100,反別70町余(梶山家文書)。同11年当村と東浜村の福岡・沖松島・八丁土手を合わせて福岡村と称していたが,同14年志度街道を境に福岡上村と福岡下村(もと東浜村の地)に分村。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7430332 |