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久米郡


平安末期以降,次第に武士化の道をたどった河野氏が中予を中心に伊予全域に勢力を伸ばし,当郡も同氏の勢力範囲に入った。河野氏は承久の乱で後鳥羽上皇の側についたため,幕府から所領を没収され,一時衰退する。しかし,河野通信の子通久はひとり幕府側にくみしたので,当郡石井郷の地頭職を与えられた。河野家文書には貞応2年の六波羅下知状がある。河野通久はこの地に縦淵【たてぶち】城を築いて本拠とした。河野通継を経て通有の代に,その弟通成は当郡土居に居住し,土居氏を称した。なお正中2年11月の大江顕元申状案(金沢文庫故書1)によれば,大江顕元が久米郡惣政所職と野口保地頭職を伝領している。元弘の乱が起きると,土居通増は得能・忽那【くつな】氏らと提携して後醍醐天皇に応じて,各地に転戦した。長門探題北条時直は彼らを制圧しようとして,土居をめざして進撃したが,通増らによって当郡星岡【ほしのおか】(現松山市星岡町)で敗退するに至った。幕府軍の敗北は京都に喧伝され,幕府関係者の心胆を寒からしめたという。南北朝期には宮方・武家方の争奪地点となり,高井城・播磨塚【はりまづか】・軍ケ森【いくさがもり】などで戦闘が展開された。南北朝期以後は,伊予国守護河野氏の勢力圏となり,その配下の土居・岸・仙波氏らに分割統治された。このころ西林寺・浄土寺が四国霊場の札所として名を知られるようになった。戦国末期には河野氏は阿波(徳島県)の三好氏,讃岐(香川県)の細川氏,土佐(高知県)の一条氏・長宗我部氏らと抗争をくりかえした。天正13年豊臣秀吉の四国平定軍に対して河野氏は降伏し,豊臣政権の支配下にくみこまれた。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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