安芸郡

郡名の初見は天平宝字6年8月27日の造石山院所労劇帳で,「奉仕雑色人等」の1人に「右大舎人少初位上玉作造子綿〈年,土佐国安芸郡人〉」とある(正倉院文書/大日古5)。「続日本紀」の神護景雲元年6月22日条に「土左国安芸郡少領外従六位下凡直伊賀麻呂,稲二万束・牛六十頭献於西大寺,授外従五位上」と見える凡直伊賀麻呂の居住地は,当郡の少領という地位や古墳の所在から,安田町をあてる説や,式内社室津神社と関連づけて室戸市室津をあてる説がある。同じく「続日本紀」養老2年5月7日条に「土佐国言,公私使直指土左,而其道経伊与国,行程迂遠,山谷険難,但阿波国,境土相接,往還甚易,請就此国,以為通路,許之」とあり,阿波を経由する官道新設(南海道の変更)が実施された。この道は阿波国から現在の東洋町甲浦【かんのうら】に入り,野根山を越える道であったとされる。奈良中期とみられる奈半利【なはり】町コゴロク廃寺建立の背後には,この官道開設による中央文化の流入があったと考えられる。平安初期,青年時代の空海が室戸岬で修行した縁により,唐から帰国後,最御崎寺(東寺)・金剛頂寺(西寺)などの真言宗寺院を開いたと伝える(編年紀事略)。両寺院は嵯峨天皇・淳和天皇の勅願所と伝え,中世には寺領の寄進を受けて栄え,郡内には多数の末寺が建立された。特に寺院建築用材の杣山とされた奈半利川・安田川両河川の上流域には,妙楽寺・成願寺・金林寺・法禅寺・北寺などがあり,なかには特色ある藤原期の仏像を残す寺がある。「延喜式」巻10の神名帳に「安芸郡三座〈並小〉室津神社 多気神社 坂本神社」とあり(国史大系),各々現在の室戸市の室津神社,奈半利町中里の多気神社・坂本神社(多気坂本神社)と考えられるが,坂本神社は芸西【げいせい】村和食【わじき】の坂本神社とする説もある。また「和名抄」には当郡内に奈半・室津・安田・丹生・布師・和食・黒鳥・玉造の8つの郷名を記す。また康保4年5月7日の太政官符では,「応補坐土左国安芸郡従四位下万業神社祝従八位下布師首勝士丸事」とあり,万業神社の存在が知られる(類従符宣抄/国史大系)。「土佐日記」には,「なはのとまり」「はね」「ならしづ」「むろつ」などの地名が見える(古典大系)。紀貫之一行は,室戸岬を回りかねて室津港で9日間の停泊を余儀なくされたが,付近は海の難所で,「梁塵秘抄」にも「土佐の船路は恐ろしや,室津が沖なる天は島勢か岩は立て」とうたわれている(同前)。なお「平家物語」巻11には壇ノ浦の合戦のことが記されているが,その中に「ここに土佐国の住人安芸郷を知行しける安芸の大領実康が子に,安芸太郎実光とて,……おとゝの次郎も普通にはすぐれたるしたゝか物なり」と見え(古典大系),安芸市川北にその城跡伝承地がある。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7434038 |