梶ケ内村(近世)

江戸期~明治22年の村名。長岡郡のうち。土佐藩領。村高は,寛永地検帳58石余(南路志),寛文7年の郷村石付,寛保3年の郷村帳ともに同高,「天保郷帳」では「豊永村枝郷」と見え160石余。明治3年の郷村帳では豊永郷総分1万3,385石余のうち。「土佐州郡志」では,「梶之内村」と見え,村の規模は東西25町・南北30町,堂社として観音堂・正八幡社(現八幡宮)・大明神社が記される。寛保3年の郷村帳によると,戸数27・人数275(男124・女151),猟銃11,牛28。延享2年の本田58石余・新田265石余・切畑92石余,家数28・人数252(男113・女139),ほかに御郡代方支配1・郷士1,御留山1・所林3(豊永郷差出扣/大家家文書)。文化9年頃の本田58石余・新田465石余・切畑98石余,家数51・人数264(男134・女130),御郡方支配1・郷士4,牛30,鉄砲14(豊永郷中家高人数地高諸覚/同前)。慶長8年11月の滝山一揆(本山一揆)平定に当村の竹崎太郎右衛門が功あり,翌9年2月死亡によりその子太郎七が10石を与えられた。「南路志」によれば当村は「梶賀内村」と見え,社堂に正八幡2・正観音堂・水神社・和霊大明神・八面山神・八面荒神がある。「東郡巡見日記」の天明8年5月25日の条に「川戸を出梶ケ内」とあり,さらに弓の百手について「あるしの云,豊永郷ハ高三十八ケ村也,其うち百手を射る所二十ケ村といへり」と記し,その流義は小笠原流という。寛政9年9月豊永郷の安野々・川戸・長淵・桃原・八川・西窪・柳野【やないの】と当村の8か村農民が,藩主の参勤交代に伴う送夫に出ることを難儀として愁訴嘆願し,御郡方により一旦鎮められたが再燃,「弘き河原」へ300人許が集まり徒党を組んだ(馬詰親音日記/土佐農民一揆史考)。首謀者13名のうち当村では組頭熊右衛門・百姓重次郎・みこ市太夫の3名が捕らえられた(土佐農民一揆史考)。産物は茶で延享2年の茶高103丸13斤(1丸30斤入)は「出来茶他国江売出ス分」とある(豊永郷差出扣/大家家文書)。なお,地内には「マロウヲト」(客人)の地名があったことが知られる(南路志)。明治4年高知県に所属。同22年西豊永村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7434913 |