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種崎村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。長岡郡のうち。村内は浦方と村方からなる。土佐藩領。村高は,寛永地検帳202石余(南路志),寛文7年の郷村石付220石余,寛保3年の郷村帳87石余,「天保郷帳」183石余,明治3年の郷村帳では313石余(本田87石余・新田226石余)。元禄地払帳によれば,本田87石余うち御蔵知42石余,残りは御船倉・御船役人屋敷・御船番屋敷など藩の船方関係地の高,および御扶持人大工10名・御船頭7名・御船倉下代1名・水主37名の各拝領地など,新田242石余うち御貢物地118石余,残りは御船倉関係地の高,および水主52名・御船頭2名の各拝領地,葛目太良兵衛役知や中島四郎兵衛領知などであった。「土佐州郡志」によれば種崎浦と見え,その広さは東西7里許・南北11町許,戸数271,船56,砂の多い地で,宝永4年の地震では海潮が横溢し,民家や寺社ことごとくが没したという。寛保3年の郷村帳による戸数168・人数903(男478・女425),船11。当村の浦方は伝統的に造船・海運業が盛んで,慶長8年の東浦船頭水主帳にも多数の船大工や水主が記され,水主屋敷を与えられている者49人,藩主御召船に乗込む者41人,御扶持人船頭18人など合計水主138人,ほかに船大工8軒・家大工4軒・樽屋6軒・鍛冶3軒・紺屋10軒なども見える(御手許記録/一豊公紀)。山内氏は城下町建設に際し,当村の住民の一部を移住させ,下町に種崎町を形成させた。また当村には船奉行を設置し,多くの造船所や船倉を管轄させ,寛永3年には,藩は船手方役人に13か条の制令を発して船頭・水主・船大工など技術者の保護と統制を命じた。船大工には御扶持人も多く,また免租の特典も与えられていたが,宝永地震後水主打銀を賦課されることになった。このため拒否運動も起こったが,藩は従来どおりの免租について態度を明らかにしなかった(高知市史)。当浦は江戸期を通じて土佐藩水軍の拠点としても発展した。幕末には当浦の船匠岡宗平・岡孫八・森下庄右衛門らによって洋式帆船の製法も伝えられ,文久2年には最初のスクーナー曜霊船が当浦で進水している。また航海習練場も設けられ,算術・測量・暦学・天文学が研修された(同前)。これら藩営事業のほかに一般の海運・漁業関係者も多く,天保年間の浦々諸縮書には廻船1・市艇30・諸漁船12・諸網11が記され,高札場もあった。なお弘化4年の当浦庄屋島崎俊蔵書出には「地下人共漁業仕者余計無御座に付,不漁之節格段渡世方無御座候間,水主働を以光陰相送居申候」とある(同前)。寺社は,「南路志」には神母・桑野明神・不動田ノ神・浦恵美須・観音堂・道心菴・法華宗妙国寺末鷲頭山頂本寺・一向宗西派正行寺が記される。神母社は,宝永地震で種崎が亡所となり,704人が溺死した際にも残ったといい,また頂本寺は,慶長6年桂昌寺が当地から国沢城の跡地へ移ってのち,翌7年旧桂昌寺地に建立されたと伝える。明治4年高知県に所属。同7年種崎小学創立,同13年種崎小学校となる。同21年種崎小学校は仁井田小学校に統合。明治22年三里村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7436250