深淵郷(中世)

鎌倉期~南北朝期に見える郷名。香美郡のうち。建久4年6月9日の将軍家政所下文には「香美郡内宗我部并深淵⊏」と見え(香宗我部家伝証文/鎌遺671),当地の地頭職に中原秋家を補任している。建仁元年7月10日の北条時政書状にも「深淵并香宗我部両郷地頭職」とあり(同前1233),豊島右馬允朝綱の土佐国守護職補任に際して,当郷の地頭職に違乱のないよう命じているが,同文書の文言から地頭職をめぐる問題が起きていたことが推察され,建仁3年の異筆のある8月4日付の北条時政証状でも,中太明道(中原秋通)の申状をうけて当郷および香宗我部郷の地頭職に違乱がないよう命じている(同前1371)。また貞応2年7月16日の関東御教書でも同様に中原秋通の地頭職補任が認められており(同前3137),以後秋通は香宗我部氏を称した。また同3年2月25日の六波羅下知状では,この両郷を中太々郎宗道(秋通の子宗通)領として認め守護使の入部を停止している(同前3218)。なお嘉元4年4月16日の中原重通地頭職譲状には香宗我部郷の四至として「限西深淵郷堺烏河」と見え(香宗我部家伝証文/土佐国地方史料),当郷と香宗我部郷とは烏川で境を接していたことがわかる。地内の深淵城については,建武3年3月17日の堅田経貞軍忠状には「押寄深淵城,懸先陣焼払城郭之処」とあり,北朝方の佐伯(堅田)氏が,南朝にくみした香宗我部氏側の深淵城主と戦っているが(西岡家文書/古文叢),江戸期の「南路志」では同文書をあげたうえで,「古城 城主不知」と記している。なお地内には,殿内・土居下の小字が残り,西に物部川を臨む台地部にあったとされている。また至徳3年6月13日の藤原兼正供僧職避状案によれば,深淵社の仁王講田5反のうち2反余が当郷内の「字平松東依」にあったことがわかり(安芸文書/土佐国地方史料),この仁王講田については,明徳2年8月16日の法橋重成譲状にも「深淵郷内」と見え(拾遺),子息重宗に譲渡されている。その後,永禄11年には長宗我部氏によって土佐神社の再興がなされたが,この時作成された一宮社再興人夫割帳の同年11月2日の記事に「深淵衆」として野口与一左衛門など4名が見え,すべてに「無縁」の注記がある(土佐神社文書/古文叢)。当郷は天正16年に検地が行われており,東深淵地検帳・東深淵郷地検帳・深淵村地検帳が残る。東深淵地検帳には東深淵村・新宮之村・新宮西村・大谷村・大谷野田村・大日寺村,東深淵郷地検帳にはヲソノオノ村・亀穴村・東佐古村・ツマリ石村・西佐古村・宮田岸ノ村・深淵村・東深淵村・母代寺村,深淵村地検帳には立田村・上咥内島村が見える。これらのうち東深淵郷の地域は現在の野市町域,深淵村地検帳の地域は現在の南国市域にあたる。また東深淵郷地検帳に見える深淵村は36筆が記され,同地検帳に見える東深淵村(5筆)・宮田岸ノ村(78筆)は江戸期の深淵村に含まれたと思われる。なお天正16年3月25日の香宗我部親泰従臣覚には中山田新助の知行所として「深淵郷」と見える(香宗我部氏記録/続々群4)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7437200 |