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苅萱の関(古代〜中世)


平安期~戦国期に見える関名筑前国御笠郡のうち刈萱関とも書く「新古今集」に菅原道真の歌として「刈萱の関守にのみ見えつるは人も許さぬ道辺なりけり」とあり,10世紀初頭に大宰府での流罪の身を歌にしているので,これ以前から大宰府の関所として設けられていたものと推定される室町期,永享10年2月16日に大内被官とみられる河内山式部丞某から博多商人の奥堂弥二郎に対して出された書状(筥崎神社文書/博多史料1)には「苅萱関過銭事」と見え,博多の奥堂氏に筥崎宮・櫛田・住吉宮の油の苅萱関過銭を免除しており,大宰府から博多へ通じる交通の要衝である当関は大内氏により支配されていたことが知られるまた15世紀後半と推定される大鳥居信快法印の記した御灯明方目録案文には「従苅萱関所若菜御供料社納候事」とあり,当関所は太宰府天満宮の若菜御供の料所になっていたことがわかる(太宰府天満宮文書/同前3)当関は名所関の1つとして古来より歌枕として知られ,説経や謡曲の「刈萱」に登場する苅萱道心もこの地の人と伝えられる(地下歌合/群書13,常徳院殿御集/同前14,永享十年石清水社奉納百首/続群14下,前大納言為広卿集/同前16上)文明12年,当関を通った連歌師宗祇は「筑紫道記」に「かるかやの関にかかる程に関守立ち出でて,我行末をあやしげに見るも恐ろし,数ならぬ身をいかにとも事とはばいかなる名をかかるかやの関」と記している(群書18)「続風土記」には「通古賀村の域内,宰府往還の道の西の側に其址あり,世に天智天皇の時,置れける関なりといふ」と見え,現在,太宰府市通古賀の関屋に苅萱関跡の標識が立っている




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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