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小倉新田藩(近世)


江戸期の藩名譜代大名無城帝鑑間詰寛文11年小倉藩主小笠原忠雄は弟の真方に1万石を分知し,小倉新田藩が成立したこれは,寛文7年忠雄が小倉藩を襲封したとき2万1,000石余の新地を幕府に書き出し,この新地を基礎にして分知1万石の新田藩を設けることを幕府に申請,許可されたものであったしかし,実際に分知された土地は新田ではなく築城【ついき】郡内の22か村で,これは本藩の高のうちに含まれる内分支藩であったこのほか本藩から別に合力米として1万石の高が与えられ,これは四公六民の原則から物成4,000石を蔵米で支給されたしかし,蔵米支給分4,000石は延宝3年から1石につき銀40匁の計算で銀160貫を支給されることになった藩領の築城郡22か村は,貞享2年上毛郡のうち黒土手永・岸井手永の26か村と交換されたこの上毛郡内の当藩領の村は,黒土手永が久路土(黒土)・鬼木・下大西・塔田・野田・荒堀・今市・吉木・清水町・恒富・小犬丸・久松・三楽の13村,岸井手永が安雲・緒方・成恒・広瀬・岸井・堀立・梶屋・市丸・森久・六郎・小石泉・皆毛・高田の13か村である(筑上郡史)その後藩領の変更はなく,当藩は真方,貞通,貞顕,貞温,貞哲,貞謙,貞嘉(貞哲四男),貞寧(貞哲三男),貞正と相続された藩主は所領には赴かず,小倉城下の篠崎の屋敷に居住したので,篠崎藩あるいは篠崎侯と呼ばれた家老は本藩の番頭級の者から派遣されたまた上毛郡の黒土・岸井両手永を支配する奉行とその下役人には新田藩士が就任したが,本藩の郡代による一円支配の中に組みこまれ,新田藩が独自に藩領の支配を行うことはなかった幕府に対しては一藩の大名としての軍役が課せられた3代貞顕は宝暦7年と同12年の2度にわたり大坂加番を命ぜられ,4代貞温は寛政2年大番頭,同12年奏者番,文化2年西丸若年寄,同9年には本丸若年寄に就任した5代貞哲は文政6年大番頭を勤め,9代貞正は文久元年大番頭,同3年大坂警衛を勤めたなお,当藩と本藩との相続関係は,初代真方が本藩藩主忠雄の弟であることをはじめ,2代貞通が忠雄の三男を養子に迎えて継がせたものであるなど当初から緊密なものがあったさらに7代貞嘉は6代貞謙の弟であったが,本藩藩主忠徴の急死により貞嘉は新田藩主を兄貞寧に譲って本藩藩主となっている幕末期,尊攘運動で大きく揺れ動く小倉藩に当藩は多大の助力をした特に幕府の長州征討令の最中の慶応元年,本藩藩主忠幹の病没に伴いわずか3歳の嗣子豊千代丸(忠忱)を後見し,長州藩との戦争,小倉城自焼作戦などは当藩主貞正の功績であった藩内の大事件としては,天保9年6か村の農民の逃散があり,また慶応3年には小祝村と中津藩領直江・土屋・別府3か村との交換があげられる明治2年5月版籍奉還に伴い,本藩から離れて領内の千塚原の地に藩庁を開き,地名を千束【ちづか】と改め,千束藩が成立し,貞正が藩知事に任命されたのち,千束に館(旭城)の築造が始まったが,明治4年7月14日廃藩置県により千束県となる




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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