酒見村(中世)

鎌倉期~戦国期に見える村名。筑後国三潴【みずま】郡三潴荘のうち。永仁4年12月日の玉垂宮大善寺仏神事注文写(隈文書/鎌遺19238)によると,当村は三潴荘鎮守玉垂宮の2月彼岸会に際し9斗9升,11月中卯日の冬蒸会の際1石の米を負担するほかに5月15日の五月会に村田楽・流鏑馬・右方相撲人を出した。これらの神役は貞和3年9月23日の高良宮祭料神役村々注文写(御船文書/南北朝遺2372)に冬祭分として「祭料米壱石 二月彼岸御供料米九斗五升 祭頭 村田楽 流鏑馬 廻廊二間 大善寺檀供十壱枚」と見える。村内に風浪宮・浄土寺および宝琳寺・摂取院の両尼寺があった。正安2年10月の関東下知状案(浄土寺文書/鎌遺20614)によると,永仁5年9月浄土寺を勅願寺とする綸旨が下されたとあり,それに基づき寺領内殺生禁断と武士らの乱入狼藉を禁止する旨令された。文保元年3月の沙弥称念下文案(同前/荘園志料下)によると,酒見村内両尼寺・浄土寺に本名主覚法が7町余の田地を寄進したとあり,それらの寺領は下地中分があったとしても分割せず,「一円之地」として永久に寺領であることを保証するとある。称念は元弘3年11月には領家進止分の中尊と呼ばれる田畠屋敷4町3反余を摂取院に寄進した。嘉暦4年4月鎮西探題北条英時は浄土寺雑掌快潤の主張を認め同寺領浜武村武藤名内田地に対する浜武教円の押妨を止め浄土寺領とするように命じている(同前)。南北朝期に入ると,暦応3年12月足利直義は酒見浄土寺に造立する塔婆に造立料所を寄進し,翌4年1月仏舎利を安置した。貞和3年8月直義は院宣の旨を奉じ浄土寺塔婆を筑後国利生塔とした。同年12月九州探題一色範氏は塔婆造立を催促し,また殺生および守護使らの乱入狼藉を禁止した(同前/大日料6‐10・11)。同5年閏6月には三池親元をして利生塔酒見浄土寺を警固させている。また風浪宮には正平十年乙未十月日造立の石塔があり,それには「酒見村当所九十九所因権現之御宝前五重石塔一基」とあり,応永21年11月日の刻銘を持つ肥前万寿寺鐘銘に「三潴庄酒見村風権権将現洪鐘銘……浄土寺比丘全瑞誌之,酒見宮内少輔菅野親教 勧進沙門住摂取因潤空」と見える(佐賀領神社仏閣鐘銘/同前7‐21)。これはもと風浪宮にあったものと考えられる。ところで,当地には南北朝期酒見城があった。応安5年8月4日肥後の菊池武安は山名少輔のこもる酒見城を攻撃しており,同8年9月肥後水島陣を撤退した九州探題今川了俊は瀬高・蒲池・酒見などを経て肥前に至っている(深堀文書・禰寝文書)。至徳2年2月水田本村百姓が放火した後逃走したが「酒見千手院領八江牟田住人」が隠している疑いがあった。室町期の某年9月20日大友政親は酒見三河守に「酒見名字地之内」を還附した(酒見文書/佐賀県史料集成20)。下って,天文19年のものと推定される4月大友義鎮は酒見下野守に「当知行酒見北分六町」を安堵し,天正9年11月同義統は酒見30町などを酒見右衛門大夫に与えた。豊臣秀吉によって下筑後を与えられた立花統虎(宗茂)は某年8月11日由布美作入道を酒見城督として城料113町を預けた(由布文書/県史資料9)。文禄4年の筑後国知行方目録(立花文書/同前4)によると酒見村の石高は796石3升であった。翌5年4月宗茂は酒見村570石余など合わせて3,500石を由布七右衛門尉に与えている(由布文書/同前9)。江戸期には北酒見村と南酒見村とに分かれる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7440377 |