博多(古代)

奈良期から見える地名。筑前国那珂郡のうち。「続日本紀」天平宝字3年3月24日条によれば,大宰府が博多大津・壱岐【いき】・対馬等の要害に船100艘以上を設置することを述べたことが見える。博多津は7世紀後半まで所見がある那津(那大津)の機能を継承したものであり,8世紀中期には,大宰府が警固すべき要害となっていた。同8年7月19日条には,新羅使節ら91人が「大宰博多津」に来着し,宝亀7年閏8月6日条では遣唐大使佐伯今毛人らが良風に恵まれず博多大津に引き返しているように,博多津は遣唐使や外国使節が出発したり入港する,外交上重要な港湾であった。これは博多が大宰府の外港であったからであり,「大宰博多津」という表現がこれをよく示している。こうした外交使節の接待施設として設けられた鴻臚館は,承和年間を境として,外国商人応接の場に変質し,ここで政府が先買権を行使する鴻臚館貿易が唐商人などを相手に行われた。また,平安期には日本人僧侶の入唐・入宋が盛んとなるが,承和9年5月には,観世音寺の恵運が入唐のため博多津で唐商人李処人の船に乗っており(安祥寺伽藍縁起資財帳/大宰府史料1),同じく入唐した天台僧円珍は,仁寿2年4月4日,博太浜において転経を行っている(円城寺文書/同前2)。貞観11年5月22日には新羅海賊が博多津に侵入し,豊前国年貢の絹綿を奪って逃走した(三代実録)。博多には九州各国からの貢納物が集積され,新羅の海賊はこれを狙ったのである。事件の後,大宰権少弐坂上滝守の言上によって,鴻臚館に大宰府から武具・選士が移された(同前)。この時滝守は「博多是隣国輻輳之津,警固武衛の要」と当時の博多の性格を端的にのべている(同前)。博多は諸外国から物資や人が集まる場所であり,防備すべき要衝だというのである。当時は鴻臚館貿易が盛んで,唐の商人が多数鴻臚館に滞在して貿易を行った。鴻臚館址と推定されている福岡城内の平和台球場付近からは,多数の中国越州窯陶磁器片が採集されており,当時の貿易の隆盛が知られる。10世紀になると,鴻臚館貿易は次第に衰退し,外国の商人達は不輸・不入の特権をもつ荘園に注目するようになった。11世紀頃から,宋の商人たちは,北部九州の荘園内の港湾に来航し,ここで荘官らと密貿易を行うようになる。長保3年に安楽寺の子院遍智院に寄進された博多荘もそのひとつであったと考えられる(安楽寺草創日記/大宰府史料4)。こうした宋商人の来航の中心地は,鴻臚館からやや離れた位置にある狭義の博多の地であった。日宋貿易の展開によって,那珂川と御笠川の河口部に位置する狭義の博多部が発展するようになった。宋の商人達は次第にこの地に移住して貿易を行うようになる。永長2年閏正月,大宰権帥源経信が大宰府で没した時,「博多にはべりける唐人ども」が「あまたまうで来てとぶら」った(散木奇歌集/同前6)。11世紀の後半にはのちの「日本風土記」や「武備志」に見える大唐街がすでに形成されていたと考えられる。また,寛仁3年には,女真族刀伊の入寇があり,博多が襲われた(小右記寛仁3年4月25日条/史料大成2)。仁平元年には,大宰府検非違所別当安清らが500余騎の軍兵を率いて筥崎・博多の大追捕を行い,宋人王昇後家以下1,600軒の資財雑物を没収し,筥崎宮に乱入して正体や神宝物を押し取るという,いわゆる筥崎・博多の大追捕が行われた(宮寺禄事抄/大宰府史料6)。当時筥崎から狭義の博多にかけて少なくとも1,600軒以上の民家が存在していたことが知られる。日宋貿易の活発化によって,博多は都市的発展をとげたのである。近年,中国浙江省寧波市の天一閣で発見された碑文は,南宋の乾道3年(仁安2)4月日の銘をもち「太宰府博多津居住」の宋商3名によって建てられたことがわかり,博多と中国明州(寧波)との海上交通による交流の深さがうかがえる(博多居留宋人に関する新資料/文明のクロスロード19,寧波に現存する日本国太宰府博多津の華僑刻石の研究/海事史研究43)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7442460 |