門司(中世)

鎌倉期から見える地名。企救郡のうち。平氏没落後この地を領したのは下総氏である。後世のものではあるが門司氏系図によると,鎮西奉行中原親能の孫親房は平氏残党蜂起鎮圧のため寛元2年下知奉行豊前国代官として下着,門司関に寄宿し下総殿と号し建長7年にはそれまで豊前安国寺領であった関領6か所を領したという(門司市史)。親房が地頭職を得たのは文永9年門司関六ケ郷名々図田注文によると片野・柳・楠原・吉志・伊川・大積のいわゆる「門司六郷」であり,ほぼ現在の門司区全域と小倉北区の紫川東側および小倉南区の北部にあたる(甲佐神社文書/鎌遺11117)。6郷には親房の子孫が分立しそれぞれ片野系門司氏等を称す。一方関としての機能は鎌倉期も継続している。宝治2年蔵人所牒写では東大寺鋳物師の諸国廻船交易往反に際し門司・赤間等の関での新儀狼藉が停止される(阿蘇品文書/同前7024)。新儀狼藉の内容は不明だが恐らく通行料であろう。同様の例は弘長2年蔵人所牒写にもみられる(真継文書/同前8911)。この機能は建治元年の関東御教書によって停止されるまで継続した(菅浦文書/中世法制史料集1)。しかし弘安4年,元の襲来を想定して防衛を命ずる関東御教書が出される(児玉文書/鎌遺14389~14390)など,関としての軍事的重要度に変わりはなかった。南北朝期以降には要地たる宿命としてもっぱら戦乱の間に登場する。正慶2年閏2月隠岐を脱出した後醍醐天皇の檄に応じ挙兵した吉見・厚東らの勢は3月末~4月には長門探題の館を囲む。これに対し鎮西探題北条英時は三河守(桜田師頼)・乙隈某をして救援のため門司関に集結させる(博多日記/天満宮史料10)。5月には鎌倉および鎮西の北条一門は滅亡するが,その時のものであろうか元弘3年8月付の下総次郎三郎親胤の著到状が残る(門司氏文書/門司市史)。翌建武元年規矩高政・糸田貞義ら北条一族による再挙の企てに際し,門司城は長野政通配下の柚板広貞・門司種俊が籠ったとの伝承が残る(歴代鎮西志/天満宮史料10)。この間の門司関領有関係は不明だが年未詳足利尊氏・直義所領目録には北条泰家跡地たる門司関が尊氏所領とされ(比志島文書/神奈川県史資料編3上),建武2年高師直奉書では山城国松尾社正禰宜相世に寄進されている(東文書/南北朝遺252)。また延文4年足利義詮御判御教書には黒河下総権守入道跡地たる門司関半分の代官職が麻生上総介に与えられている(麻生文書/同前4142)。しかし下地支配は依然門司氏にあったことは上記「東文書」および貞和2年沙弥崇親・親清連署状写(榊原文書/南北朝遺2187)から知られる。貞和~観応年間武家方は尊氏・直義の不和に直冬が加わり,宮方勢力とあいまって北部九州は複雑な様相を示す。足利尊氏の実子で直義の養子である足利直冬は少弐頼尚らに支えられて九州経略に従うが,貞和6年11月,肥前方面の大将であった腹心の今川直貞を門司関に派遣している(南北朝遺2917・大友史料7)。吉志系門司氏下総親胤軍忠状によれば観応2年10月~同3年2月にかけ宮方に帰した大館・厚東氏らと直冬に属す親胤が門司関から小倉津にかけ海上での戦いをくりひろげた(門司氏文書/南北朝遺3336・3343)。観応年間~応安初年は菊池武光を主力とする宮方が北部九州を制圧した時期であるが,この間門司氏も二分して門司・小倉・宗像【むなかた】と転戦し,門司城は武家方の拠点となる(門司氏系図/門司市史,門司氏文書下総親胤軍忠状/南北朝遺3922・3923・4571等)。応安4年九州探題に任命された今川了俊は12月門司関に上陸する(道ゆきふり/群書18)。門司・赤坂に陣を布いた了俊は翌年には麻生山から宗像に陣をすすめ,8月には大宰府を陥し宮方を圧倒する(周布吉兵衛文書/大日料6‐35)。宮方勢力が駆逐されたのち北豊前に勢威を張ったのは大内氏である。明徳2年11月将軍義満御教書において門司関等の所々を麻生上総介に沙汰せしめるよう大内義弘に命じた(麻生文書/九州史料叢書)のは大内氏の豊前守護たる立場に対してであろう。応永9年4月には門司北方吉志郷が由緒の地たるを以って大内盛見から門司中務少輔に還付されている(門司氏文書/門司市史)。一方15世紀初め頃よりの勘合貿易において門司は重要な位置を占める。明の景泰5年勘合符による応仁2年入明船は,1号船は将軍家の和泉丸,2号船は細川氏の宮丸,3号船は大内氏の寺丸であるがいずれも門司の船であり,和泉丸の船頭は門司五郎左衛門祐盛であった。ほかに門司の渡明船としては夷丸の名が見られ,いずれも周防・備後等の船よりは大船であり,和泉丸2,500石は大船すぎて渡海せず宮丸1,700石を以って1号船と為すとある。輸出品(硫黄)の積込みも博多と並び行われ,3号船寺丸には大通寺居座通懌が乗船するが大通寺は門司所在の寺であることなど,勘合貿易に門司の果たした役割は大きい(戊子入明記/大日料8‐1)。このような門司の存在は海外史料にも記され,「李朝実録」世宗22年(永享12年)8月条,「海東諸国記」などに門司・文字関の名を残す。門司の所管は「兵庫北関入船納帳」文安2年4月10日条,「大内氏壁書」などを見ると大内氏およびその代官としての麻生氏にあったらしい。特に壁書には文明19年4月20日条々に「赤間関 小倉 門司 赤坂のわたりちんの事」があり,赤間関と門司の間は1文と規定され,風波の荒いときでもこの定めを守り違背する者は小倉代官所へ引きわたすものであった。ところで中世には前代にひきつづき多くの歌集に門司の名が残るが,そのほとんどは単なる歌枕として文字の関を詠んだものである。ただ一つ,文明12年大内政広の招きで北九州を訪れた連歌師宗祇は,門司においても門司下総守能秀の館にて一句詠じている(筑紫道記/群書18)。戦国期に入っても16世紀前半までは大内氏が門司を支配しており,永正17年12月門司八幡宮領安堵状,同18年9月門司依親所領安堵状なども大内義興の判が加えられている(甲宗八幡宮神社文書/大日料9‐11・13)。しかし天文20年大内義隆が陶晴賢に討たれた後は毛利と大友との争奪の地として史料上頻出する。「大友公御家覚書」(大友史料30)には天文23年毛利元就と大友義鎮が門司・石原・安達山等に戦い,弘治2年には豊前を征したとあるが他史料には見えない。「歴代鎮西要略」「吉田物語」「陰徳太平記」「後太平記」等の近世軍記物には弘治元年以来連年門司城をめぐる大合戦があったごとく記すが,ここでは軍忠状等により確認されるもののみを記す。まず永禄2年8~9月に門司城攻防戦があり,一時は大友氏の手に帰したことが大友義鎮・田原親宏・毛利隆元等々,双方諸武将の感状に見える(大友史料20・萩藩閥閲録など)。その後は再び毛利方に属したらしく永禄4年8月大友氏は毛利の対尼子戦の間隙に乗じ門司城奪回を企る。門司城には仁保隆慰・長井親房が在番し,吉志系門司氏も詰めていた(萩藩閥閲録109)。石見より急遽ひきかえした隆元以下の毛利勢は小早川隆景を門司に送り10~11月大友勢と戦いこれを撃退する(毛利家文書2/大日古,萩藩閥閲録など)。この時は大友側の大敗北であり大友側史料にも「慮外敗軍」をし京都郡・仲津郡まで追撃されたとあり(大友家文書録/大分県史料32),豊後国内にも動揺が広がった(佐田文書/熊本県史料中世篇2)。翌5年冬にも両軍は門司で対峙する。大友方は門司攻略に「油筒」を用意し(田尻文書/大分県史料13),毛利方は乃美宗勝・冷泉五郎らに門司城普請を命ずる(萩藩閥閲録102)。11月26日両軍が門司表にて衝突するが勝敗は不明である(萩藩閥閲録11,立花文書/県史資料4)。両者は永禄6年7月ひとまず和議を結び門司を含む企救郡は毛利の支配するところとなる(毛利家文書2/大日古)。しかし和議は永禄8年には破れ大友一族高橋鑑種の自立化の動きもあり,以後12年にかけ北九州は混乱をきわめる。この戦いは永禄12年大友勢が立花城を攻略し毛利が筑前より引き上げ,高橋鑑種が小倉城に入ることにより一応の結着をみるが,この間門司城は毛利方の拠点として,冷泉四郎元満の城番の下,大友勢の攻撃を防ぎとうしたようである(萩藩閥閲録102など)。なお門司氏は一貫して毛利方に属し伝来の所領を辛うじて維持した(萩藩閥閲録109)。豊臣秀吉の九州仕置にあたって門司は秀吉軍の前線基地として再び脚光をあびる。天正14年6月秀吉は毛利輝元に門司・麻生等の城への人数兵糧運びこみを命じ(毛利家文書3/大日古),これをうけて輝元は7月「門司へ敵取懸候ハゝ五日内可打下」き旨を門司在番衆に命ずる(萩藩閥閲録57)。8月3日秀吉は小早川・吉川両氏に門司への渡海および軍奉行黒田孝高との相談を命じ(小早川家文書1/大日古),5日には元春・隆景とも単身にても渡海し門司を固め,豊後―門司―赤間関ラインを確保せよと命じた(毛利家文書3/同前)。10月3日付秀吉書状は薩軍攻略方十一ケ条を記したものだが,そこでも毛利輝元の門司入城を促すなど(立花文書/県史1‐下),これらは門司の軍事的位置付けを如実に示す史料であろう。9月末渡海した毛利勢は10月4日高橋氏の小倉城を陥す。翌天正15年3月には秀吉自ら西下し24・25日には門司,小倉への渡海の意を示す(豊公遺文/大友史料27)。28日小倉に移った秀吉は島津軍を圧倒し,5月島津氏は降伏する。この遠征に同行した細川幽斎の「九州道の記」(群書18)は今川了俊・飯尾宗祇の伝統をひき,のちの天正20年朝鮮の役における長嘯子木下勝俊の「九州のみちの記」(同前)と並ぶ門司近辺を写した紀行文である。対島津戦後の論功行賞で門司を含む企救郡は毛利(森)勝信に与えられ,ここに門司は中国・九州両勢力対峙の地としての戦乱の歴史を閉じる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7443662 |