江川町(近世〜近代)

江戸期~現在の町名唐津城下の1町城下町の北西部に位置し,北は唐津【からつ】湾,東は裏坊主町,西は西旗町と接する唐津十七か町の1町町名は町割り以前に江尻川の支流が山下町と当町の間に流れており,その河川名にちなむともいう築城時は下級武士の居住する組屋敷町として設定されたが,のち町人も居住し,宝暦年間の絵図では武家地と町人地が混在している明治初期の絵図ではすべて町人地となっている東西に名護屋道が走る文化年間頃の町筋は東西3町35間,古来本軒68,当時人数263(男139・女124),町年寄2人・組頭2人,酒屋1軒,紺屋1軒・質屋1軒,山伏は浜田院・明善院(松浦拾風土記)正保年間の絵図には当町北部に養宝寺が見え,宝暦年間の絵図には浄法寺跡・稲荷社・山伏明善院が見える浜田院は彦山派の御目見山伏で当町中央に居住していたが,宝暦年間の絵図では跡地が墓地となり巨大なソテツが描かれている妙善院(明善院)も彦山派の御目見山伏浄法寺は真宗西本願寺方の寺院で文化年間頃には伊岐佐村にあり,当町から移転したとみられる(唐津拾風土記抄)当町と裏坊主町の境界辺は「たがみ」,当町南部の小路は「わくど屋敷」「西裏町」と通称されていた街道筋にあたる当町は幕末から明治中期にかけて郷方相手の商売の町として繁昌し,現在も当時の面影をとどめる家並みが多い明治元年の軒数87・人数289(唐津市史)藩領最後の町年寄は田中安兵衛・藤生平兵衛・山岡惣兵衛(旧藩制ヨリ伊万里県マテノ諸控/県史)「明治11年戸口帳」では唐津町のうちに「江川町」と見え,戸数87・人口358同9年当町の曳山「七宝丸」は14番曳山として宮崎和助などが製作曳山の製作順序については水主【かこ】町との間で争論となり,そのために唐津神社の祭礼における曳山の順番が厳守されるようになった明治22年唐津町,昭和7年からは唐津市に所属明治22年から昭和22年までは大字唐津のうち明治30年の人口1,034(唐津市史)大正5年大手前から西唐津への軌道が当町南方の朝日町を通るようになると当町はにぎわいを失い,職人が多く居住する町として現在に至る昭和44年元旗町から清和保育園が当町西部に移転大正4年の戸数128・人口650世帯数・人口は,大正14年の148・698,昭和5年165・743,同35年255・1,017,同41年238・830

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7444576 |




