肥前国

天正15年北上する島津義久を討伐するため豊臣秀吉が九州出兵を行い,戦後の処置として基肄・養父両郡が小早川隆景に宛行われたが,慶長4年宗義智の所領になった。上松浦郡の波多氏は没落し,秀吉の部将寺沢広高が入り,唐津藩が成立した。他の地は全て竜造寺隆信の子政家に与えられたが,文禄・慶長の役には竜造寺勢は実際には鍋島勝茂が率いており,慶長12年には完全に鍋島氏が実権を掌握した。宗氏は鳥栖【とす】市の田代に代官所を置き,ここに佐賀藩(鍋島氏)・唐津藩(寺沢氏)・対馬藩(宗氏)の3藩が成立し,ほぼ藩領の確定をみせた。松浦郡の一部は幕府領であった。肥前国は江戸期では基肄・養父・三根・神埼・佐嘉・小城・杵島・藤津・高来・彼杵・松浦の11郡で,うち佐賀県分は基肄・養父・三根・神埼・佐嘉・小城・杵島・藤津の8郡と松浦の東・西地区で,他は長崎県下に当たる。郷帳に見える佐賀県分の村数と村高の合計は「元禄郷帳」では基肄郡21か村・9,122石余,養父郡23か村・1万601石余,三根郡48か村・2万4,335石余,神埼郡109か村・4万9,335石余,佐嘉郡172か村・10万2,779石余,小城郡144か村・4万6,409石余,杵島郡114か村・6万7,436石余,藤津郡79か村・3万750石余,松浦郡353か村中佐賀藩領31か村・8,690石余,唐津藩領230か村・6万3,032石余,五島藩領56か村・1万2,530石余であった。佐賀藩の鍋島勝茂は旧竜造寺家臣団が多久・武雄・諫早・須古に健在であったため,三部上知を行い元和7年には大配分に再度三部上知を行って竜造寺氏一族の領地は半減し,寛永年間に至り本藩のほかに鹿島・小城・蓮池に支藩をつくった。支藩は参勤交代を行う大名格であったが知行は佐賀本藩から与えられた内高であった。肥前国の国絵図は「慶長国絵図」が基本になっており,幕府の命によって作製されたもので全国的に施行されたが,現存するのは少ない。延宝8年唐津藩主大久保忠朝所持の国絵図を岩田七兵衛が写し,天保8年にさらに佐賀藩で写したと裏書に記されている。絵図は縦234cm・横249cmの大きさで,彩色手書。縮尺は明記されていないが,1里3寸ほどの縮尺で,ほぼ5万分の1の縮尺にあたる。図は山地を「へ」の字形で示し,有名な山には山名が記されている。川は青色,道は赤色,国界は黒色,郡界は白色,藩領界は茶色によって区別されている。地名は長方形の枠内に村名が記入され,その横に石高が付記されている。また郡別に大きな長方形をつくり,その枠内に郡単位の総石高,田畑面積,寺社領石高,物成,小物成高を記入してある。この石高は慶長検地による石高と思われ,慶長検地高を考えるうえでも貴重な史料である。当絵図が貴重な面は,慶長年間の有明海の海岸線がわかることで,その後の干拓事業の伸展を知ることができる。江戸期の新田は6,300町歩に及び,藩別の物産としては米麦・雑穀のほかに佐賀藩では有田焼と称する陶磁器・木蝋・石炭など,唐津藩では唐津焼や石炭,対馬藩では売薬が盛んであった。佐賀藩では幕末に洋学が藩の方針で栄え,多くの人材を輩出したが,近代兵器の生産が反射炉の完成によって開始され,明治維新の大きな推進力となった。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7446470 |