愛津村(近世)

江戸期~明治22年の村名。肥前国高来【たかき】郡のうち。島原藩領。北目筋に属す。村高は,「正保国絵図」469石余,うち江口村215石余・山川村254石余,宝永4年469石余,うち田369石余・畑100石余(島原様子書),「安永3年郷村帳」469石余,ほかに新田70石余,「天保郷帳」592石余,「旧高旧領」601石余。新田は,関新田に加え,安永年間に小無田下新田・宮ノ下新田が完成。人数は,宝永4年村々大概様子では970,文化6年村町人高覚では1,338(男675・女663)。「島原様子書」によれば,島原へ陸路7里28町,村内は小無田・山川の2名に分かれ,宝永4年の反別は田55町余・畑35町余,卯年(寛政7年)改の新切56町余(田12町余・畑43町余),百姓屋床地子免許反別3町余,米津出は当村浜から島原へ海路8里,農間余業は男は茅・薪取,女は布木綿織,草刈場は100町程で野井村・山田村入会,文政6年の家数604・人数1,337(男654・女683),牛26・馬87,鉄砲1。庄屋職は,野井村光西寺の当山累代歴鑑によれば,宝永2年朝永次郎左衛門死去のあと伊古村より杢兵衛が迎えられて庄屋となったとあり(愛野町郷土誌),以後代々深浦家が世襲。幕末の島原他各村冥加金名寄帳には,庄屋深浦一郎平・乙名松尾治三郎・庄屋次席松屋仙兵衛・平百姓善兵衛といった名が見える。佐賀藩諫早【いさはや】領との境には関所が設けられ,土居口と原口に往来改番所が2軒,士分の番人が配置された。この間14町のうち7町は竹もがり,残り7町は生垣がめぐらしてあった。諫早領とは41か所の境塚と2本の境石杭で区別されていたが,境界をめぐって紛争が絶えなかった。当村には関所への夫役のほか,フェートン号事件以後は長崎急蒐合(急用村継)が割当てられ,村高残諸役は免ぜられた(島原様子書)。鎮守は四面宮(温泉神社)で,雲仙の四面宮の末社,ほかに八幡1・山王1・天神2。山王社は歴代島原藩主の崇敬も篤かったという。寺院はなく,堂4,うち地蔵2,釈迦1,佐代御前1(島原御領村々大概様子書抜)。明治4年島原県を経て長崎県に所属。同11年南高来郡に属す。明治7年1月土井口に愛津小学校を開校,教員男2,生徒数は男54・女4,同年8月の台風によって大破したため新築(明治8年学務課事務簿)。同年愛津郵便役所開設。「郡村誌」によれば,村の幅員は東西約31町40間・南北約21町40間,地勢は「東方吾妻岳〈千々石村〉ノ西麓ヲ負ヒ,其陵夷セル山尾数条ノ陵谷ヲ成シ,森林畑地トナリ,其下モ低下スル所村落田地トナル,南方海ニ接スト雖モ断岸十余丈,大石重畳シテ大洋風濤ノ衝ニ当リ,舟船ヲ寄ス可ラス,陸運便利,薪材乏シ」,地味は「土色灰黒,田方ハ瘠薄,畑方ハ較肥フ,稲・粱・大豆・唐芋ニ宜シ,麦作ニ宜シカラス,櫨・茶ニ適セリ,水利ニ便ナリ,古田ハ上流ニ在テ水利秒,三年ニ一回ノ旱アリ,新田ハ下流ニ在リ旱損少シ,新古田共概ムネ一毛作ニシテ夏作ハ少ナシ」とあり,村内は小牟田・山川に分かれ,税地は田68町余・畑116町余・宅地1町余・山林4町余の合計191町余,改正反別は田85町余・畑210町余・宅地15町余などの合計310町余,地租は米372石余・金233円余,国税金は13円余,改正租金は1,520円余,戸数は本籍302・社2(村社1・雑社1)の合計304,人口は男684・女702の合計1,386,牛70・馬159,神社は村社の温泉神社のほか日吉神社が鎮座,学校は愛津小学校が設置され,明治9年の生徒数は男49・女13,古跡として首塚・旧関址・小牟田古城が記載され,民業は商工業20戸のほかは農業,物産は牛約10頭を佐賀・長崎,馬約40頭を諫早・唐津・佐賀,雞約300羽を長崎その他,雞卵約1万顆を長崎その他,櫨実約2万斤を隣村へ出し,ほかにムツゴロ魚・蚕糸・果物・米・大豆・菜種・白木緬などと記される。同22年愛野村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7447174 |