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宇野御厨(古代〜中世)


平安期~戦国期に見える御厨名肥前国松浦郡のうち宇野御厨荘,単に御厨荘ともいう律令制下では天皇や神に貢納する食物を贄【にえ】と称しており,のちに宇野御厨が置かれた松浦・五島の地域でも,大宰府を通じて贄が貢進されていたことが,「延喜式」や贄木簡などによって知られるこの地方における贄の貢進はすでに「肥前国風土記」松浦郡条に見え,景行天皇が小近・大近の島々(五島列島)を征服したとき,ここにいた大蜘蛛の大耳・垂耳が命乞して,以後,蚫等を贄として天皇に献上することを約束したという伝承が載せられている一方,同じ風土記に五島地方は馬・牛に富んでいたという記述があり,早くから島を利用した放牧がなされ,「延喜式」兵部省の項では,6処の官牧が記載されているが,その中の庇羅馬牧・生属【いきつき】馬牧・野牧はこの地方にあったしかし,律令体制の解体に伴って,贄の制度も変質し,官牧も消滅し,それらの要素を含み込んだ宇野御厨なる荘園が成立する宇野御厨の初見は,寛治3年8月17日の筑前国観世音寺三綱解案に「宇野御厨別当下文」とあるものである(東南院文書/平遺1275)同文書および同年9月20日の大宰府公文所勘注案(同前/平遺1277)によれば,「大府贄人」と号する松永法師なる人物が観世音寺領筑前国生葉郡杷岐荘内の中島の地を宇野御厨領であるとして押領するという事件が起こっている松永法師は,この地は贄人源順の先祖相伝の所領であるとしており,松永法師の所進文書によれば,生葉郡内における贄人の所領の存在が知られ,宇野御厨は,肥前国松浦郡のみならず,筑後・筑前の地域にもその所領は及んでいたようである当初,宇野御厨は,大宰府の管轄下にある贄人が活動する北九州・五島の沿岸地域を指したという説もある次に宇野御厨の名が見えるのは,康和4年8月29日の肥前国宇野御厨検校源久譲状案である(石志文書/平遺1494)この文書は偽文書の疑いが濃厚であるが,「宇野御厨野検校散位」(源久)という松浦党の祖といわれる人物が見える松浦久は11世紀の半ば頃,今福に下向し,土着したといわれ,松浦党の諸氏は彼を祖と仰いでいる(松浦家世伝)正治元年11月2日の北条時政書状に「某後何事候哉,抑肥前国松浦党〈清・披・囲・知・重平〉如本可令安堵」とあり,松浦党は平家方の水軍として活動したが,所領を安堵されている(伊万里文書/鎌遺1084)松浦党は宇野御厨および松浦荘一帯に土着した源姓一字名の集団を中心に,当初はその姻族が加わった武士団であった史料によれば,清・披・囲・知・重平の子孫の松浦党の諸家は宇野御厨の荘官でもあり,執行職・検非違所・弁済使・公文職・惣追捕使職・定使職などを所持し,御厨内に所領をもち,割拠していた清の子孫は,今福の松浦氏,志佐氏などがおり,今福の松浦氏は,鎌倉期執行【しぎよう】氏を称し御厨執行職を相伝した披は,近世大名となる平戸松浦家すなわち峰氏の祖であり,披の庶子から伊万里氏および福島氏が出ている峰氏は平戸・紐差・河内・野崎・南黒島・小値賀島(浦部島を含む)等の所領を所持し(青方文書/史料纂集,武雄市教育委員会所蔵感状写/西南地域史研究2),伊万里氏は,伊万里浦(現佐賀県伊万里市)・福島・楠泊・屋武・田平などに所領をもち,五島の権公文職や五島の海夫集団のいくつかを掌握していた(伊万里文書/平戸松浦家資料)峰氏の所領小値賀島は,本来,清原是包なる人物の所領であったが,是包が高麗船の荷を移し取ったという罪で,仁平2年,領家より勘当され,所領の小値賀島は没収された披・清・囲の兄弟の父である御厨執行の直は是包の姪の清原三子を妻としており,その関係から小値賀を領有することとなった13年知行の後,一時是包が還補されたが,平氏政権が成立すると,再び直が知行するところとなったその後,直は妻の清原三子と離別し,宋人の船頭の後家を後妻に迎え,その連れ子の連を養子として小値賀島を譲った一方,清原三子は実子囲(山代氏の祖)にこれを与えた清原是包は甥の藤原尋覚に小値賀島の所領を与えたともいい,尋覚もこの領有を主張した鎌倉幕府が成立すると,連は直の譲状をもって文治4年3月8日の関東下文を賜わり,尋覚も鎌倉幕府に訴え,建久7年7月12日の前右大将家政所下文を得たこの結果,連と尋覚の間で相論となり,幕府もこの処置に窮したようであるさらに清原三子の譲状を有する山代囲,本領是包の子松法師の4人が相伝の由緒をもつという複雑な状況となった松永法師は安芸国で殺害され,小値賀島をめぐる相論は尋覚・連・囲の3者の間で行われることになった山代囲は実力で連・尋覚を不知行状態に追い込み,建保元年12月27日浦部地頭地頭職安堵下文を受け,子息固に譲り,建保6年9月12日安堵下文を賜わったそこで,連・通澄は不知行を認められるかたちとなったため,連は建保7年甥の峰持に小値賀島を譲り,通澄は持と親子の契を結び承久元年,持に小値賀島を譲り,持は承久3年5月26日の関東下知状で小値賀島の地頭職に補任されたここに,小値賀島地頭職をめぐる争いは,峰持と山代固の一族相論となったが,安貞2年3月13日の関東裁許状で峰持が勝利し,平戸の峰氏が小値賀島の地頭職を相伝することになった(青方文書/鎌遺3732)本主の子孫の藤原家高(通澄の弟)は青方氏を称し,峰持との和与で下沙汰職(代官職)を保つという状態になり,以後地頭峰氏からの自立は青方一族の悲願となった一方,囲の子孫の山代氏は,御厨内の山代浦(現伊万里市),青島などに所領をもち,安貞2年7月3日に値賀五島の惣追捕使・定使職を安堵されている(松浦文書/鎌遺3764)ところで,先の北条時政書状に見える「知」については,よくわからないが,「重平」は峰披の小舅であり,津吉に本拠をもって伊万里浦を領知していたようであるこのほか,鎌倉期には御厨内の大島・紐差・保々木(宝亀)・池浦・亀淵の地頭職および御厨内西宮大宮司職・神官検非違所・海夫本司職を所持する大江氏(のち大島氏)を称する一族がおり(武雄市教育委員会所蔵感状写/西南地域史研究2),生月【いきつき】の領主には,西遷御家人と思われる加藤氏(実相院文書/佐賀県史料集成15),宇久島の宇久氏(青方文書/史料纂集),2字名をもち志々伎神社の大宮司職を相伝したとみられる志自岐氏(山代文書/佐賀県史料集成15)などがいた文永・弘安の役の際は,これらの御厨の松浦党は,日本側の水軍として活躍し,御厨内の平戸島は元軍の集合地点となり(元史日本伝),御厨沖の海土,鷹島は元軍の壊滅の地となった弘安10年11月11日の肥前国守護北条為時挙状によれば,松浦一族が一揆して鎌倉に参上して,恩賞地の早期配分を訴えようとしたが,モンゴルの再襲来に備えるため,鎮西を離れることを禁じられ,志佐・有田・山代の3人が代表として参上した同文書には「肥前国御家人松浦一族御厨庄地頭等二十余人」と記されており(同前/鎌遺16388),この時期,御厨内の地頭は20人を越えていたことが知られる正応5年8月16日の肥前国河上宮造営用途支配惣田数注文によれば,「宇野御厨庄三百丁」と当御厨の公田数が記されている(河上神社文書/鎌遺17984)鎌倉期の支配関係は不明な点が多いが,当御厨はその性格から見て,大宰府の管下に設置された天皇家の直領ともいうべきものであったと思われるが,鎌倉末期には西園寺家領となっていたことが知られる元亨2年8月16日の西園寺実兼所領処分状案に「一,肥前国宇野御厨 小牛為毎年々貢出来,中宮大夫与両人相分,各半分可取也,員数依年有多小歟」とあり,御厨の年貢は小牛であり,実兼の子の右大臣今出川兼季と孫の中宮大夫西園寺実衡がこれを折半したことが知られる(雨森善四郎氏所蔵文書/県史古代中世編)「国牛十図」によれば,宇野御厨から貢進される牛は「御厨牛」といい,「角ながく骨ふとく,皮完あつく,えだふとく,おほかた牛大きなり」と記されており,牛には西園寺家の決めた大文字に鞆絵の印が押されていたという(群書28)南北朝期以降,西園寺家にとっても宇野御厨は実質的に不知行状態となったと思われ,支配を伝える史料もなくなる在地においても,御厨の機能はほとんど失われたようで,宇野御厨の名も次第に広域称化して使用されなくなり,代わって,下松浦の称が現れる現在知られる終見は,永正5年6月11日の松浦弘定寄進状の「肥前国下松浦宇野御厨庄相神浦」であるが,室町期に御厨の地名は史料から激減する南北朝期を境に御厨内の荘園的秩序も解体し始め,小領主たちも地域的一揆体制を形成する永徳4年2月23日,嘉慶2年6月1日,明徳3年7月5日と宇野御厨を中心とした下松浦地方の小領主は一揆を結んでいる(青方文書・山代文書/県史古代中世編)この内,御厨内の小領主をあげると,以下のようである平戸(峰)・田平・山代・大島・志佐・丹後・宇久・御厨・佐々・小佐々・有川・江・伊万里・調川・津吉・舟原・一部・加藤・山田・楠久・木須・志佐白浜・青方・松尾・奈留・有川・志々岐・相神浦・佐世保などであるこれ以後も地縁的一揆が結ばれるが,一揆は重層的に存在し,室町期にはこれを通じて次第に地域支配の統一が進行してゆく五島では宇久氏が一揆を利用して戦国大名への道を進み,平戸を中心とした地域では平戸松浦氏がむしろ一揆と一線を画し,中央の公権力と結びながら,同じ道を歩むことになる当御厨の範囲を確定することは難しいが,鎌倉期の史料を基軸に考えると,現在の五島列島(福江島付近は不明)・平戸島・生月島・度島・大島・福島・鷹島などの島々と田平町・松浦市・鹿町町・小佐々町・佐々町・佐世保市などを含む旧松浦郡・南松浦郡域と伊万里市の伊万里湾の西側地域を含む一帯がその範囲であろう




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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