黒崎村(近世)

江戸期~明治22年の村名。肥前国彼杵郡のうち。大村藩と佐賀藩深堀領との相給。大村藩領外海【そとめ】地区,佐賀藩領深堀郷に属す。「郡村誌」によれば,村内のうち上黒崎郷・牧野郷は大村藩領,下黒崎郷は佐賀藩深堀領で,ほかの永田郷・東出津【ひがししつ】郷・西出津郷・赤首郷は大村藩領と佐賀藩深堀領が混在していたという。なお,「大村郷村記」には「黒崎村ハ往古外目村と云,天正十五丁亥年夏,長崎及浦上村・家野村・外目村有故公領となる〈外海村と云ハ三重村の内并陌苅苅村・黒崎村・雪浦村内,是を統て外目村と云ふ〉,慶長十年秋,長崎村・同新町〈今曰外町〉公領となるに依て,代地として浦上村の内〈古場村・北村・西村〉,家野村之内〈一村を分て賜ふ〉并外目村再当領となる」とあり,古くは外目村ともいい,天正15年から公領となり,慶長10年から再び大村藩領となったという。「大村家記」によると,慶長10年再び大村藩領になった頃には,外目村の高は田畑屋敷,小物成とも288石余で,内訳は陌刈【あぜかり】村135石余・黒崎村123石余・雪浦村106石余であったという(外海町誌)。「郡村誌」の三重村の項には「始メ三重村ノ一村タリ,慶長年間割イテ三村ヲ置キ,黒崎・陌刈・平及ヒ三重ノ四村トス,文政二己卯年陌刈・平ノ二村ヲ廃シ三重村ト合併」とあり,慶長年間に三重村から分村して成立したと伝える。また,佐賀藩の史料である「宝暦郷村帳」には三江村の小村として長田村・樫山村・黒崎村・悉津村・平村の名が見え,黒崎・永田・出津が三江村の一部として把握されている。この三江村とは,「元禄郷帳」「天明村々目録」「天保郷帳」に見える三重村97石余のことと考えられ,当村の佐賀藩領分は三重村の一部として把握されることもあったことが知られる。なお,「元禄郷帳」「天保郷帳」にはこの三重村とは別に366石余の三重村も記載されるが,これは現在長崎市域に属している(現長崎市三重町など)。この366石余の三重村も,黒崎村同様に大村藩と佐賀藩の相給村で,この三重村のうち樫山などの地が佐賀藩領であった。以上のことを考え合わせると,「天保郷帳」に見える黒崎村127石余・三重村366石余・三重村97石余とは,黒崎村のうち大村藩領分が黒崎村127石余,三重村のうち大村藩領分が三重村366石余,黒崎・三重両村域のうち佐賀藩領分がまとめられて三重村97石余と表示されているのではないかと思われる。この複雑な関係は近世初頭の当村の成立事情,大村・佐賀両藩領の錯雑した相給,幕府へ届出た郷帳類での村名と藩領内で把握する村名との相違などに起因していると考えられよう。当村内における相給はきわめて錯綜し,大村藩領分の地の中に佐賀藩領分が飛地的に散在することもかなりあった。このため,境争論が絶えなかった。当地に佐賀藩領が飛地的に存在するようになった理由は不詳だが,伝説によれば,秀吉の朝鮮出兵に従軍した当地方の在地土豪のうちに佐賀の鍋島氏の指揮下で戦った者がいて,帰国後もそのまま鍋島氏に仕えたのではないかともいわれている(外海町誌)。村高は,慶長17年検地による大村藩朱印高123石余(大村郷村記),「天保郷帳」127石余,文久2年の大村藩領の内検高217石余,うち田高182石余・畠高35石余(同前),「旧高旧領」166石余。「天明村々目録」「天保郷帳」には三重村として97石余とも見える。佐賀藩領分の給人・地米高は,「玄梁院様配分帳」では賤津【しつ】(出津)村が鍋島官左衛門14石余,黒崎村が鍋島官左衛門17石余,長田村が鍋島官左衛門5石余,「大小配分石高帳」では黒崎村が鍋島左馬助17石余,長田村が鍋島左馬助5石余。「大村郷村記」によれば,文久2年の大村藩領分の村況は,東西1里14町・南北30町,広さ1,800町余,うち田地22町余・畠地36町余(うち切畠21町余)・山林野1,567町余,ほかに佐賀藩深堀領173町余,内検高の内訳は蔵入地67石余・浮地27石余・私領121石余,ほかに切畠21町余,年貢上納は米166俵余・小麦58俵余,竈数257,うち大給1・小給2・鉄砲足軽7・蔵百姓37・蔵間百姓26・私領184,人数1,457(男727・女730),宗旨別人数は法華宗29・真言宗1,428,牛118,運上を納める諸職業の軒数は染屋3・揚酒屋4・糀屋1・鍛冶1,販売商品として芋・干鰯をあげ,村内には長田浦・出津浦があり,船数37,神社は天満宮・山ノ神などがあると記される。また,正保元年大村純信の設置の小番所があり,黒崎村は往古外目村といったこと,大村藩領と佐賀藩領の境界を示す石があること,村の南北に通じる道路については「神浦村境荒河より三重村境駕立場まで行程一里二十四町四十間半,此間黒崎村往還也」とあり,貝類や海草としてはテングサ・サザエ・瀬貝・ニシン・ワカメ・マツノリ・ヨガマタ・フノリ・アヲサ・トコロテン・藻などが採れると記されている。「外海町誌」によれば,慶応年間佐賀藩領出津260戸のうち医家1戸を除き,全部がキリシタンであった。当時から明治初年まで信者に対する迫害は続けられ,慶応3年には約300人の信者が高島炭鉱などで働かされ,明治4年出津13人・黒崎6人が佐賀で入獄している。これはのち外交問題となり,明治6年弾圧は停止された。その後明治期には,250年の弾圧に耐えた出津信徒260戸のうち,60戸が昔キリシタンとして隠れた時のしきたりを守り,200戸がカトリックとして再渡来した宣教師の指導下に入った。昔キリシタンはキリシタンであると同時に仏寺の檀徒であり,神社の氏子でもあるという混成的なもので,葬儀も年忌法事も混成化されている。死体は頭をローマ(東)に向けて寝棺で葬った。回向帳によって,死者のためによくオラショを唱えて回向し,死者には純白の衣を縫って着せ,頭にはバスチャンの椿の剥片を鉢巻にして葬った。明治4年,大村藩領分は大村県,佐賀藩領分は伊万里県を経て,長崎県に所属。同11年西彼杵郡に属す。同年戸長役場を置く。「郡村誌」によれば,村の幅員は東西35町50間・南北1里1町50間,地勢は「東北ハ茫漠タル原野及ビ金石・一石等ノ高峰ヲ負ヒ地勢最モ高ク,西方ハ相撲灘ニ瀕シ地勢自ラ低シ,川流二条東ニ起リ西ニ朝ス,然モ舟筏ノ利ナシ,海浜一条ノ道路アリト雖モ険隘ニシテ運輸不便ナリ,且薪足リ炭ナシ」,地味は「其色灰白,其質軽墳,間々温石ノ小片ヲ含ムガ如シ,甚瘠地ニシテ稲粱ニ悪ク桑茶亦適セズ,僅ニ甘薯ノ独リ適スルアルノミ,水利ヤゝ便,屡水損ノ虞アリ」と見え,村内は赤首郷・西出津郷・東出津郷・牧野郷・上黒崎郷・下黒崎郷・永田郷に分かれ,税地は田69町余・畑190町余・宅地16町余・山林19町余・原野21町余の合計318町余,改正反別は田84町余・畑276町余・宅地18町余・山林14町余・原野24町余・草生地2町余・秣場9反余などの合計425町余,地租は米192石余・金920円余,国税金は95円余,改正租金は1,468円余,戸数は本籍828・社3(村社)の合計831,人口は男2,291・女2,504の合計4,795,牛103,学校は出津小学校(生徒数男108・女4)と黒崎分校(生徒数男123・女3)が設置され,神社は大神宮神社・柏木神社・天満神社が鎮座し,ともに村社,古跡として字小島に田中古城跡が残り,民業は農業864戸・工業23戸,物産は米790石・麦1,401石・甘薯148万180斤・野牛375頭・干鰛4,860斤・豚398頭・雞450羽,うち輸出高は野牛267頭(浦上山里村・高島村などへ)・干鰛4,800斤(佐賀県諸富・福岡県若津へ)・豚154頭(浦上山里村へ)・雞230羽(浦上山里村へ)と記される。明治22年市制町村制施行による黒崎村となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7448063 |