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波佐見村(近世)


 江戸期の村名。彼杵郡のうち。大村藩領。地方【じかん】地区に属す。村高は,慶長17年検地による朱印高2,484石余(大村郷村記),「天保郷帳」2,845石余,文久2年内検高8,051石余,うち田高7,662石余・畠高338石余(同前)。「旧高旧領」では上波佐見村と下波佐見村の2か村に分けて記されている。「慶長高帳」によれば,当村は蔵入地と知行地からなり,知行地は庶家一門2人・大村給人14人・小姓衆20人・郡村給人7人・波佐見給人29人の合計72人に給されていた(県史藩政編)。「大村郷村記」によれば,文久2年の村況は,東西2里27町・南北1里10町,広さ5,464町余,うち田地597町余・畠地217町余(うち切畠81町余)・山林野4,650町余。藩政策として士分の次男・三男で6石以上を開拓すれば村小給等の士分取立てを行うとして増収に努めた。年貢は寛永12年に4ツ5分,口米(付加税)1石に9合が確立し,寛文2年夫米(村役人費用)7升5合が追加されて5ツ3分4厘となり,幕末まで変わらなかった。小物成は100石につき胡麻1斗5升・上茶1斤・堅炭2俵・薪2荷・大根5本・薯蕷1束・栗1升・萱畳4枚・藺畳1枚・稲巻1枚・摺糠10俵・麻柄1束・藁100束・飼葉10俵。労役は寛文年間に確定され,郡役夫・郷役夫の2種があり,ともに15~60歳の男3日(銀納1匁)。波佐見村の竈数・人口は元禄年間632・4,329(大村記),天保15年1,820・8,630(大村郷村記)。当村は主として農村で,盆地地形から溜池が大小合わせて215,灌漑用井手が128か所の多数にのぼり,そのほとんどは江戸期に造られた。特産物として焼物がある。文禄・慶長の役帰陣の折連れ帰った陶工たちにより村木郷で焼きはじめたのが慶長4年とされている。初めは陶器であったが,三股地区で陶石を発見し,「慶長十年ごろ三股皿山立ち初む」とあって(皿山旧記),早くも磁器生産が始まった。以後陶石のある中尾皿山が正保元年,永尾皿山が寛文3年,燃料が豊富な稗木場皿山が寛文7年に焼き始められ,この4皿山が今に至るまで焼物の中心となった。他に永田山・木場山・百貫松でも焼かれ,窯跡が現存する。藩では寛文5年三股に皿山役所を設け,絵薬の斡旋,製品の販売などを手がけて窯業の保護奨励に努めた。波佐見産は茶碗・皿・徳利・燗瓶など庶民向けが主で,他の肥前焼とともに伊万里港から積み出されたので,伊万里焼と総称された。波佐見焼で世に知られたものに,くらわんか茶碗・コンプラ瓶がある。京~大坂を上下する淀川の川船で食べ物を売る食器を「くらわんか手」といい,波佐見焼が多く使われた。コンプラ社とは長崎商人の輸出組合で,オランダ東インド会社へ売り出す醤油などの器が,波佐見産のコンプラ瓶である。江戸期に唯一の開港場であった長崎から東南アジア・ヨーロッパへ輸出された。「大村郷村記」に「当村は田地広大,畠山林少く土地肥え領内第一の広邑也」「中興(4代藩主純長か)当邑を割きて上下に分ち上波佐見・下波佐見と号す」「波佐見庄屋の儀以前は下村一ケ所也,然るに当村は村広く一ケ所の庄屋にては諸事届きかぬる故上村にも庄屋を建つる也」とあり,江戸前期頃に当村は上波佐見村と下波佐見村とに分かれた。ただし,この分村は大村藩の領内限りのものであったらしく,幕府に届け出た郷帳類(元禄郷帳や天保郷帳など)では波佐見村一村となっている。「大村郷村記」は冒頭に波佐見村全体を簡単に触れたあとに,上・下2か村に分けて各村況を記載している。主として田高で分けたので,上波佐見村と下波佐見村の面積比は約2対1となっている。明治3年12月,大村藩最後の改革で冗費節約などのため領内48か村を合併分村して38か村に整理したが,この時波佐見村は正式に上波佐見村・下波佐見村の2か村に分村した。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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