100辞書・辞典一括検索

JLogos

25

六町分村(近世)


江戸期~明治初年の村名肥前国高来【たかき】郡のうち六丁分村とも書き,単に六町(丁)分と呼ばれることも多い江ノ浦川流域に位置する佐賀藩諫早【いさはや】領諫早郷に属す「天保国絵図」「元禄国絵図」「元禄郷帳」「天明村々目録」「天保郷帳」「旧高旧領」など幕府へ提出した国絵図・郷帳類では江ノ浦村と見え,当村名は記載されないが,佐賀藩の史料である「宝暦郷村帳」「天明郷村帳」などでは当村と三町分村の名が記されて江ノ浦村の名は見えず,佐賀藩領内では江ノ浦村域を当村と三町分村とに分けて把握していたなお,三町分村は当村と同じく諫早領であったが,寛延3年~明和4年の間は上知されて本藩領となったため,この間しばらくは江ノ浦村のうちでは当村が諫早領として主となった村高は,江ノ浦村としてしか判明せず,当村分は不明給人・地米高は,「玄梁院様配分帳」「大小配分石高帳」ともに諫早豊前(諫早領)246石余とある天保3年の諫早私領田畑石高帳によれば,反別は田59町余・畑19町余・出来畑6町余,地米高は田畑246石余・出来畑3石余で,合計地米高250石余嘉永5年の高来郡土師尾村江浦村図では江ノ浦村の西部となっている(県立長崎図書館蔵)明治初年江ノ浦村の一部となるこの合併は版籍奉還後,佐賀藩の行った新しい村仕組に基づいてなされたものと考えられ,中央政権への届出としては郷帳類と同様に江ノ浦村の一部とされたわけである




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7449681