飽田郡

郡名の初見は平城宮出土の木簡で,「肥後国飽田郡調綿壱伯屯天平三年主政大初位下勲十二等建部君馬口」とある(平城宮木簡1)。郡司は建部君であったが,この建部は蝅郷一帯を本拠としたと推定され,のち鹿子木荘武部薗として現熊本市坪井1~6丁目・黒髪1~8丁目付近を所領としており,また天平15年8月29日には「建部君足国」が合志郡井手原の禅房で大般若経を書写している(奈良東明寺蔵)。奈良期の郡衙所在地は不明。ただ現熊本市の京町台地に郡寺であったといわれる大道寺の遺跡が認められ,その周辺地とも推定されている。「和名抄」によると管郷は宮前・加幡・小垣・私部・栗北・天田・川内・水門・殖木・下田・市田・蝅
の12郷。9世紀の中頃,肥後の国府が託麻郡から当郡市田郷の現熊本市二本木町・二本木1~5丁目のうちに移ったため,以来当郡は行政の中心となった。「肥後国誌」によると,同地は古府中と称され,在庁屋敷跡・国造小路といわれる所があったという。その後この国府が南北朝期まで存続したようである。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条によると,官道は北から旧北部町域を南北に通って現熊本市京町・本町方向に向かい,旧北部町北端の改寄【あらき】の立石(推定)に高原駅が設置され,駅馬・伝馬各5疋が置かれたとの説もある。蝅
郷にも駅家が設置され,また立田山西麓を「車大路」と呼ばれる官大道が通じ,子飼の渡しで白川を渡り,託麻郡の国府に至ったと推定されている。10世紀の寛和2年には,肥後の国司として清少納言の父清原元輔が赴任した。この頃になると,律令制が次第に崩壊して富豪が出現し,当郡では蚕養長者の伝説が残る。多分に建部氏の成長した姿ではなかったかと推定されている。また承平5年には宮前郷の藤崎台に藤崎八旛宮が勧請された。この頃になると,各地の開発が進んだが,鹿子木荘は長元2年沙弥寿妙が開発私領の公験を得,応徳3年大宰大弐藤原実政に寄進したことに始まる。鹿子木荘にやや遅れて北部に九条家領窪田荘,中心部に藤崎宮領(藤崎荘または宮内荘),西部に活亀荘,南部に河尻荘が成立した。またこれとは別に,郷が成立し,郡東部に立田郷,西部に飽田郷が生まれ,さらに飽田郷は南郷・西郷に区分されたのであろうか,鎌倉期には「飽田南郷河尻内」と見え,西郷のうちとして八王子荘が見られる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7449776 |