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葦北郡


天正15年豊臣秀吉の九州侵攻により島津氏は薩摩へ退き,島津氏領となっていた当郡は,肥後を与えられた佐々成政の支配下に入った。しかし成政は国侍と争って失脚,相良【さがら】氏領を除いた肥後の北半分は加藤清正領,南半分は小西行長領となったが,当郡は飛地状に清正領へ組み入れられた。清正は,北限を日奈久郷,南限を湯浦郷とする知行を重臣加藤重次に与え,佐敷城を守らせた。一方,郡内のうち津奈木・水俣・久木野は豊臣秀吉の直轄領とされ,深水宗方が代官に任命された。同地は,その後天正18年頃相良氏,文禄2年頃寺沢氏へと代官職が引き継がれ,慶長3年寺沢氏領にかわり,翌4年小西行長が領有した。しかし行長は同5年関ケ原の戦に敗れ,天草郡と相良領を除く肥後全土が清正領となり,この時点から津奈木城・水俣城へ清正の城代が配置された。寛永9年加藤忠広が改易され,細川氏が肥後へ入国。熊本藩は地方統治に手永制を敷き,当郡は二見・田浦・佐敷・市野瀬・大野・湯浦・津奈木・水俣・久木野の9手永に分割され,国侍や加藤家遺臣などの有力者を惣庄屋にあてた。このうち市野瀬手永は寛永19年佐敷手永へ,二見手永は寛文11年田浦手永へ,大野手永は同13年佐敷と湯浦手永に分割編入されて6手永となった。「肥後国誌」によると,当郡の総高は1万9,401石余,郷帳に載せる郷村30,手永ごとの高は,田浦手永5,144石余,佐敷手永3,881石余,湯浦手永3,003石余,津奈木手永2,039石余,水俣手永4,791石余,久木野手永518石余となっている。また「天保郷帳」では村数30・石高1万9,218石余,幕府から与えられた朱印高から離れ,実高によった数値は「旧高旧領」で村数204・石高2万1,023石余。寛永年間頃の家数5,326・人数1万1,816,牛775・馬390,日奈久・田浦・佐敷・舟津・海浦・斗石・津奈木・水俣などに水夫役が賦課されており,その総計は水夫数377,舟数182(肥後読史総覧)。当郡は人吉藩・薩摩藩の藩境にあたるため,加藤氏時代から特に軍事的な注意が払われてきた。細川氏もその重要性を認め,入封早々豊後鶴崎とともに佐敷山に白船黒船遠見番所を設け,また外敵に備えて地侍をいち早く編成した。寛永14年天草・島原の乱が起こると,葦北地侍たちは大いに活躍し,以来,特権を付与された地侍と郡筒制が確立した。郡筒は他地域では下級役人にとどまったが,当郡では,国境守備の軍事力として藩政終了まで存続し,士族に格付けられた。編成当時の員数は,田浦手永87人・佐敷手永70人・湯浦手永103人・津奈木手永42人・水俣手永107人・久木野手永21人の総数430人を数え,大体この割合で明治3年の廃止時まで続いた。彼ら地侍・郡筒を指揮する武士も熊本城下から派遣され,これを佐敷詰25人組と称し,1,000石から2,000石級の佐敷番代をはじめ100石から200石級の25人の藩士が郡内重要地点に配置された。このため佐敷に藩校も設置されるなど,熊本から僻遠の地に独特の文化を築いた。また藩士と地侍・郡筒など支配側が郡内すみずみまで散在したためか,一揆などの争いはほとんど記録に見えないが,延享4年湯浦・津奈木・水俣の百姓らが大勢集合し熊本へ押し掛ける計画であったものの,佐敷で説得され中止した一例がある。明治3年の改革に伴い,郡には郡政局が置かれることとなり,当郡には日奈久に八代【やつしろ】郡政局葦北出張所が設置された。翌4年郡政局は廃止され,大小区制に組み込まれた。明治4年熊本県,同年八代県,同5年白川県を経て,同9年熊本県に所属。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7449801