植木町(近世)

江戸期~明治22年の町名。山本郡のうち。熊本藩領。豊後街道の宿駅の1つ。「旧高旧領」には町名が見えず,「肥後国誌」では,正院手永内に滴水【たるみず】村のうち「味取新町」として載せられ,俗に植木町とも称すると記される。同書は,当町の成立を元禄元年とするが,「肥後近世史年表」では元禄6年。また安政5年と推定される植木町成立方法願書(岡山家文書/植木町史)によれば,元禄8年宿駅便利のため町建てを仰せ付けられ,丁数12,竈数240軒となり,町奉行ら役人も居住,宿駅の用を勤めてきたが,隣宿に近いことなどから次第に寂れ,3丁に衰退し,町奉行ら役人も引き上げたとある。これより以前文政9年の正院手永手鑑帳(肥後国郷村明細帳1)では,当町の商いなどについて,質屋1,造酒屋2,揚酒本手3本,麹屋4,藍瓶5本,商札68枚,馬口労札1枚を記す。また植木町成立方法願書では,当町土産の産業はきざみ煙草製造とし,当時竈数140軒のうち100軒余がこれに従事,子供から老人まで何らかの賃仕事にかかわっているとある。しかし幕末には,きざみ煙草製造もすでに最盛期を過ぎ,町の活性化,また御茶屋や陣屋の修理・整備費用捻出のため,富講興行開催を願い出ている。なお慶応年間から明治初年にかけては,寺子屋7があり,俳諧も盛んであったという。熊本県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属。明治8年,のちに植木民権党の拠点となる植木学校が開校したが,その急進性から,熊本県庁に睨まれ,半年で閉校したが,戸長征伐運動などに多大な影響を与えた。また西南戦争では,植木学校創始者の一人広田尚らが薩摩軍熊本協同隊に参加,要地でもあり,当町は薩摩軍の拠点となった。そのため政府軍の激しい攻撃にさらされ全焼した。「郡村誌」によれば,畑5町1反余,戸数278・人数1,092,馬9,字東三町目に人民共立小学校があり,生徒数は男89・女39,物産は打綿・絞油・清酒・素麺・繊突煙草など,民業は造酒職1戸・質屋3戸・旅籠屋24戸・絞油職2戸など。明治16年の「県統計表」では戸数255・人口1,050。同22年植木町の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7450199 |