亀甲村(中世)

鎌倉期~南北朝期に見える村名託麻郡神蔵荘のうち建治元年10月19日の詫磨時秀譲状案(詫摩文書/県史料中世5)に「阿良社敷地 亀甲」と見え,詫磨時秀から頼秀に譲与されているまた建治3年と推定される年未詳8月1日付の沙弥寂意奉書(同前)によると,詫磨時秀は「亀甲境」について相論を起こし,神蔵荘預所に訴えているその後正和3年9月2日の鎮西下知状(同前)によれば,詫磨氏惣領頼秀と弟親政の間で「肥後国□(神)蔵庄阿良社敷地亀甲内本村屋敷壱所」をめぐって相論が起こり,頼秀が禅師社前の石本屋敷を一期の間親政に与えることで和与となった正和5年3月17日の沙弥寂意譲状案(同前)には,孫一丸への相伝所領として「かめのこうのむら」などが見え,元亨3年11月6日の詫磨親政譲状案(同前)にも「かめのこうのそしかふん」と見えることから,詫磨庶子家へも分割相続されていたことが知られる建武元年4月18日の後醍醐天皇綸旨案(同前)では,「(阿良社敷地)免田畠并亀甲村屋敷在家野畠荒野等」と見え,詫磨宗道に安堵されている当村の現在地は不明であるが,弘安11年4月25日の沙弥寂尊(詫磨時房)譲状案(同前)には「同(弥石)名門内四丁,阿良社敷地かめのこうの村といふ」と見え,弥石名内阿良社敷地一帯が村域であったと推定される現在の熊本市琴平本町付近に比定される

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7451077 |




