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河内村(中世)


 南北朝期に見える村名。飽田郡のうち。暦応3年2月3日の三池心応判四方指写(牛島文書/県史料中世4)に「肥後国飽(田脱カ)郡之内池上内河内村大堺」とあるのが初見で,当村の四至については「東ハ野出堺」「南ハ岩との平山堺」「西ハ伊倉の浜,海をさかふ」「北ハうあま堺」とある。この境界は,暦応3年以前の建久年間に決定されたものと思われ,年月日未詳の飽田郡河内村堺覚書写(田尻文書/同前)には「飽田郡河内村之堺定り候年号」として「建久九年也,其時之検使栗崎兵部也,在判,牛島能登守公縄在判」とある。また同じく年月日未詳の栗崎完国・牛島公縄覚書写(牛島文書/同前)にも建久9年3月吉日に河内船津村と池上との境界を定め境石を設けた旨が記されているが,同文書は検討を要する。なお「事蹟通考」所収の牛島家系図によれば,平公尚(渋江五郎)が肥前国長島荘牛島から建久9年に当地に移住し,牛島氏を称したといい,四至の決定との関係も考えられるが,詳細は不明。その後,天文4年の年紀のある年月日未詳の鹿子木親員知行目録(鹿子木文書/県史料中世1)に「六町 河内」とあり,地内の一部が隈本城主鹿子木氏の所領となっている。なお天正16年と推定される3月20日付の飽田郡検地衆に宛てた浅野長吉判物写(牛島文書/県史料中世4)には,「飽田郡活亀之内山上之事……一所 河内 居屋敷四町壱丈 牛島三郎左衛門……忠儀之衆候間,検地可相除者也」とあり,天正15年の肥後国衆一揆の際の勲功として当地内の牛島氏の屋敷地の検地が免除されている。また牛島氏は承応元年12月の三名字建立寺社書立(田尻文書/県史料中世2)によれば,地内に大慈寺末寺江月院を建立して菩提寺とし,一族の墓を字藟山【つずらやま】に築いたという。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7451128