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隈部村(中世)


室町期に見える村名菊池郡のうち熊部とも書き,「くま目」とも称した正平4年10月頃と推定される年月日未詳の恵良惟澄申状追書写(阿蘇文書/大日古13‐1)に「隈部城」と見え,菊池武光は北朝方から同城を奪い返している康暦元年と推定される7月17日の今川了俊書状写(同前/大日古13‐2)によれば,「菊池事ハ,陳之城,くま目の城,木野城なと,更々兵粮なき時分にて候間」とあり,「くま目」とも呼ばれていたまた永徳元年7月日の深堀時久軍忠状(深堀文書/県史料中世5)には「同(永徳元年)六月十八日,自板井御陣,熊部松尾御陣令御供,同廿二日熊部城没落畢」とあり,「熊部」とも見える南北朝期には戦場となることが多く,元中4年9月26日の牛屎院元勝代山内元清軍忠目安案(牛屎院文書/同前)にも「同(元中4年8月)六日菊池隈部陣仁馳加,今月三日御方之人々同帰参仕」とある村名の初見は享徳3年卯月吉日の願文(潮崎稜威主文書/熊野那智大社文書4)で,「肥後国隈部村住人」とある明応7年9月13日の重隆書状写(阿蘇文書/大日古13‐2)には,「拙者事存旨候間,一段可致奔走候,隈部へ被仰由承候」と見える応仁元年2月4日の阿蘇惟歳書状案(同前/大日古13‐3)には「先度くまへニ参候時分,殊外預御奔走候之間」とあり,惟歳が当地に来た時,菊池重朝の接待を受けたことが記されている文明4年と推定される年未詳8月3日付の阿蘇惟家宛阿蘇惟歳書状写(同前/大日古13‐2)には「此内求广(磨)より之棟別□隈部より被遣候」と見え,阿蘇山本堂造営料の肥後国棟別銭の証状が当地の菊池氏から遣わされたことが記されている永正3年大友義長が小国に兵を進め,菊池政隆は敗れて山鹿に走るが,この戦いについて,永正3年と推定される年未詳10月16日付の山北邦続内田重国連署状(相良家文書/大日古5‐1)に「去月(9月)〈廿二〉至小国境取付陣,今月〈二日〉隈部近所於木庭寄陣候,然者,山鹿南郡遠所之条,隈本隈庄為可被加格護,去三日於内空閑城屋形(政隆)被罷籠候」とあるまた同年閏11月20日の阿蘇氏家臣連署証状写(阿蘇文書/大日古13‐2)には「於隈部在番,親父左衛門方軽一命御忠節之段,肝心之由被仰出候」とあり,「隈庄之内両人之跡五町」を祭主又五郎に宛行っており,同年閏11月21日の阿蘇惟長宛行状写(同前)にも「親父左衛門尉,於隈部軽一命忠節候事」とあり,「隈庄之内四町,横枕弾正分一町,番は八郎跡」を宛行っている翌4年と推定される年未詳12月15日付の菊池(阿蘇)武経(惟長)書状(西巌殿寺文書/県史料中世1)の袖書に「惟長様守護ニ御成候て,永正四年丁卯十二月十三日,隈部へ御社参候」とあり,菊池武経が肥後の守護となり隈部に入部したことが記されている永正13年頃から豊後の大友義長が肥後国内の紛争に介入しはじめ,この頃のものと推定される年未詳正月11日付の朽網親満書状(碩田叢史所収阿蘇文書/大友史料14)には「第四為如此之辻,同年九月上旬ニ,以義長下知,我等致先陣,至肥後木場令在陣,手始ニ隈部西寺令発向,其後木野・山鹿・隈本・渋庄・山本・内空閑,所々敵城依加対治候」と見える「大友家文書録別記録」には「義鑑弟義国〈童名菊法師重治〉永正十七年庚辰二月十九日,豊州発足,同四月十三日(同23日カ)隈部入,同廿八日,隈本登城」とあるように(大友史料15),この年菊池武包が追われ,大友重治(菊池義武)が肥後守護となっている天文3年には菊池義武が追われて相良氏を頼り,肥後国は大友氏の勢力下に置かれるが,天文3年と推定される年未詳5月11日付の徳丸鑑忠宛大友義鑑感状案(大友家文書録/県史料中世5)には「於今度肥後国隈部表,長々在陣軍労感⊏⊐而一段可賀申候」と見え,当地の在陣を賞しているこの一連の戦いに関連すると推定される年未詳5月11日付の大友義鑑感状案には,衛藤右衛門尉宛,小野次郎三郎宛(小野文書/同前),佐土原六郎宛(佐土原文書/大分県史料13),三代右衛門尉宛(萱島文書/大分県史料10),合沢弾正宛(合沢文書/大分県史料25),大津留次郎太郎宛(大津留文書/同前)などがあり,それぞれ「肥後国隈部表」における在陣の労を賞されているまた年未詳10月8日付の大友義鑑書状(五条家文書/纂集)には「就隈部城覚悟之儀,別而被添心之由承候」とあり,五条氏に対して合戦の協力を謝している天文4年の年紀を有する年月日未詳の鹿子木親員知行目録(鹿子木文書/県史料中世1)には「天文〈四〉乙未年迄……代所之事,隈部御陣之時,四月於板井申理候」とある天文19年には争乱となり,豊後の大友義鑑は同年2月家臣に暗殺され,3月菊池義武が隈本城に拠って大友義鎮に背くが,8月大友義鎮が義武軍を破り,義武は肥前に逃亡,翌年9月頃大友義鎮が肥後を平定している「八代日記」天文23年4月7日条に「豊州御使真光寺(寿元)・田吹殿隈部ニ候ニ,福泉坊被遣候」とあるなお年未詳9月14日付の板波助進知行坪付書出写(田尻文書/県史料中世4)には「玉名郡内社家之事」の1つに「一,五町者 隈部本地」とある「紹剣自記」天正9年4月条(旧記雑録後編1)に「肥前竜造寺肥後南之関ニ着陣,同十三日,隈部ニ寄,次廿日之比赤星殿落城」と見え,当地は竜造寺氏の支配下に置かれたしかし同12年3月竜造寺隆信が敗死すると島津氏が侵攻し,「勝部兵右衛門聞書」に「一,同年の八月下旬,肥後表合子蔵人親為早薩广方ニソ参ラレケリ,阿蘇家と隈部の親光・和井府ノ宗家なと,未御下知に不随」とあり(旧記雑録後編2),肥後国内には島津方につくものも出てきているなおこの記載から考えると,当地と隈府【わいふ】は別の場所とも考えられるが未詳また同年と推定される年未詳9月13日付の薦野増時宛の戸次直雪書状(薦野家譜/大日料11‐9)には「薩州衆事,肥後熊本江著陣候,至隈部今明之間被取懸之内,追々到来候」とあり,島津軍が熊本から当地を攻めるということが伝えられている「上井覚兼日記」天正12年9月18日条には「今日不慮ニ隈部堺目ニ諸所若衆中指出候,然処ニ敵懸候間,各辛労被申,敵十一人被討留候,其外手負数十人有と見え候由也」とあり,当地付近で戦いがあったことが知られる(古記録)天正15年の豊臣秀吉の九州侵攻については,「勝部兵右衛門聞書」に「殊ニかき瀬の渡り難所なれハ,薩广よりの下りより難成とて,和井府・合子・隈部を引去り隈本へ打籠り,城の久基と一身ニして一防子セくへしと思ひける処に,城殿も何とやらん気色見へける間,八代さして引ニける」と島津勢が退却していった様子が記されている(旧記雑録後編2)当地は,正平末年菊池武政が深川から城府を当地に移したことにより「隈府」と称されるようになったと伝えるが,戦国期に至るまで「隈部」とも見えており,両用されていたとみられるなお「隈府」の地名は永正2年と推定される年未詳9月6日付の阿蘇惟長書状写(阿蘇文書/大日古13‐2)が初見現在の菊池市隈府付近に比定される




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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