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野原西郷(中世)


南北朝期~室町期に見える郷名玉名郡のうち野原荘西郷ともいう当郷は弘長2年野原荘が領家と地頭との間で下地中分された際の地頭方の地である郷名の初見は,建武3年6月16日の小代義宗警固宿直請文(小代文書/県史料中世1)で,「肥後国野原西郷小代長鶴丸代丹六義宗」とあり,小代長鶴丸の代官義宗が博多聖福寺惣門警固宿直を6月16日に1日1夜勤めた旨を奉行所に報告しており,奥に佐竹重義が証判を加えているこの小代長鶴丸は同年7月16日の小代宗重関所警固請文(同前)には「野原西郷一方地頭小代長鶴丸代六郎」とあり,当郷一方地頭であった同年6月30日の仁木義長充行状(上杉家文書/大日古12‐1)によれば,「肥後国野原西郷伍分壱地頭職〈壱岐前司入道等跡〉」を勲功賞として宛行っており,宛所を欠くが,おそらく上杉氏宛のものであろう次いで,同年9月18日の小代重峰軍忠状(小代文書/県史料中世1),同年9月日の小代吉宗軍忠状(同前)には「野原西郷一方地頭小代八郎次郎重峰」「野原西郷一方地頭小代八郎次郎(重峰)子息長鶴丸代丹六吉宗」とあり,合志幸隆に属して,筑後国豊福原六段合戦に加わり,菊池・寺尾野・盤闍久・虎口・穴河城などを破却したことを述べ,同年10月9日の小代重峰軍忠状(同前)では,今川助時の手に属して唐河合戦に軍忠を致したことを述べているまた同4年5月15日の小代経資軍忠状(同前)によれば,「野原西郷一方地頭小代八□(郎)次郎代兵□(衛)尉経資」が侍所(佐竹重義)の手に属して,軍忠を励んだことを述べているまた同じ頃と推定される年月日未詳の小代光信軍忠状(詫摩文書/県史料中世5)にも「野原西郷一方地頭小代左衛門八郎入道光信」とある下って康永3年3月20日の竜造寺上円譲状(竜造寺文書/同前)によれば,孫子家平に対し,重代相伝の所領「野原西郷増永内田畠屋敷等」を譲与しており,当郷内に竜造寺氏の所領があったことが知られる年未詳7月22日付の佐竹重義挙状(小代文書/県史料中世1)によると,小代重氏が所領について愁訴していたことが知られるが,2通の貞和3年8月7日の少弐頼尚書下(同前)によると,詫磨宗直と守護代に対し,「野原庄西郷三分弐」を小代重氏に沙汰付するよう命じているまた同6年11月9日の足利直冬下文(同前)では,小代隆平に「野原庄西郷益永名内迫村内地頭職」などを安堵している下って康暦元年6月1日の詫磨寂祐譲状(詫摩文書/県史料中世5)によると,重代相伝の所領「野原のさいかうとミまろ名内,あう(らカ)をの田畠屋敷等」を詫磨西八郎から悔い返して,惣領詫磨別当五郎を養子として譲与している康応元年5月26日の今川貞臣書下(小代文書/県史料中世1)によると,小代親平が訴えた「野原西郷内知行海夫船已下事」について裁許を下し,親平の申状を認めている下って,室町期の応永14年5月14日の小代宗行の袖判を有する片山親行去渡状(同前)には「肥後国野原之西郷倉満名内永代去渡申三町分之坪付之事,同屋敷三ケ所」とあり,「からをさき」「なわてそい」「くさは」「大手はた」「古河」「ふへたう」「ひへた」などの小地名が見える寛正6年6月17日の菊池(カ)武為安堵状(同前)によると,「肥後国野原東西郷」を小代兵庫助に安堵しているなお天文23年に書写された野原八幡宮祭事簿(野原八幡宮文書/県史料中世1)のはじめに「肥後国玉名郡野原庄西郷之村流記帳之事」とある現在の荒尾市西部に比定される




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7453433