七里田村(近世)

江戸期~明治8年の村名豊後国直入【なおいり】郡朽網【くたみ】郷のうち岡藩領久住【くじゆう】高原北東部,大船【たいせん】山南東麓の七里田川流域に位置するはじめ有氏【ありうじ】組千石庄屋,のち同組大庄屋に属した村高は「正保郷帳」136石余,うち田91石余・畑44石余,水損がち,「見稲簿」元文4年の「七里田村田畑屋敷菱竿御検地帳」(武藤氏文書),「天保郷帳」では136石余,「旧高旧領」180石余なお,貞享2年の村高179石余,村位は上,庄屋は大蔵,安永7年の庄屋は伝左衛門(農民一揆)正徳元年と享保9年の類族改では同年以前の当村の類族病死者男5・女2(朽網郷切支丹類族・耶蘇宗門并類族御改帳)当村内には温泉が湧出し,岡藩では湯守に給米1石5斗を与えて温泉を管理させた(地方温故集)明治4年大分県に所属同8年向原【むこうばる】村ほか6か村とともに有氏村に合併現在の直入郡久住町大字有氏のうち

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7456767 |




